北から望む神村城山

怪談「やや(阿良)が火」の舞台、神村城跡
 天正の末のことと言う、沼隈郡神村の城主で石井又兵衛という者がいて、側室を「阿良」といった。
この阿良が修験者の松林院とただならぬ中となって、毎夜密会を重ねていた。
ところが二人の関係を主人の又兵衛が知ってしまった。
 又兵衛は、周囲の止めるのも聞かず、烈火のごとく怒り、二人を殺してしまった。
その様子を聞いたものは一様に身を振るわせた。
又兵衛は二人を裸にして大桶の中へ入れ、上から「百足」と「毒蛇」を放り込ませ、酒を注がせた。酔った毒虫毒蛇は、陰門と言わず、耳鼻といわず、二人の身体に纏わりつき、二人は叫び狂いながら死んでいった。
 二人の骸は、近傍の伊勢山の傍らに埋められた(犬塚という)。
その後、夜な夜な犬塚から「青火」が飛び、石井屋敷の人を悩ませた。
これを「阿良(やや)の火」という。
後に石井家で手厚く供養して収まったが、今(江戸時代後期)でも時々この火を見るものがあるという(西備名区)。有名な怪談「阿良の火」の一節だ。
「阿良」は実在の人物らしく、石井家の墓所に墓もあり、神村の八幡神社の境内には、彼女を祀る祠もある。
 さて、怪談の舞台となった神村城跡は、神村町の伊勢山(鏡山)の東に残っている。
園芸センターのある竜王山から北に伸びた尾根の一つを利用して築かれた山城で、現在も曲輪跡や空堀跡を見ることができる。
本丸に建立された城跡碑

 城の歴史は意外と古い。
 「西備名区」によると、神村城は、明応年中(1492〜1501)に野気沼掃部頭重春が築き、同重信、同玄蕃と三代居城し、重信・玄蕃父子の代に、大内氏の旗下となって防州三田尻に移ったと云う。
野気沼氏の去った後に神村城主となったのが石井氏だ。
石井氏の素性に関しては諸説がある。
「西備名区」は、神村城主として石井石見守、同右京進を挙げ、古城記を引いて「古志の臣」と記している。
「阿良の火」の又兵衛は、この石見守の息子だと言う。
 石井氏が古志氏の家臣であったという記載は、神村城の立地、構造から見て頷ける。
 神村は、平安末期以来、京都の石清水八幡宮の荘園、「神村庄」として知られている。
荘園の政所として勧請されたのが神村八幡神社だ。
だが、室町後期になると石清水の支配は後退し、隣接する新庄本郷の国人古志氏の勢力が神村に及んで来た。
「水野記」神村八幡社のところに、「文安年中、古志正光神村の社領を削りて、七〇石を寄す。すなわち古志代々天正の末、元綱に至るまで社領あり」とあるのがそれだ。
 神村城は、古志氏の東の「境目の城」として築かれた(利用された)と見て、まず間違いない。
神村石井一族の墓地

 石井氏の素性に関しては別に興味深い記載がある。
石見守・右京進は兄弟で、元々京都の武士で将軍足利義昭の奉公衆であった。
義昭が信長に追われ鞆に来た時に、石見守兄弟も従い鞆津に移り住んだ。
よってその居住の跡を石井町という。その後、石見守は神村に移り、右京進も新庄本郷に移り住んだ…。
 「西備名区」の著者は、義昭の家臣であれば、時代も合わず、古志の家来というのも間違いだ、と述べているが、義昭の備後鞆津動座は天正四年(1576)、古志氏の没落は天正十九年(1591)だから、ありえない話ではない。
一色氏のように、義昭の依頼で庄原の山内氏が召抱えた例もある(山内首藤家文書)。