柏城跡から見た亀寿山城跡

謎の武将宮氏と亀寿山城 その五
「一本古城記に、宮氏は小野宮左大臣清慎公の末葉にて、品治郡宮内亀寿山城主、是惣領家なり、宮氏所々に散在す。皆、亀寿山城より出て、此に属するものなり」
備後三大郷土史書の一つ『西備名区』の一節だ。
亀寿山城が宮氏の本拠で、惣領家の居城だったとする説は以後長く定説となった。
福山地方史の定本となっている『福山市史』上巻も、「宮氏は杉原氏に劣らぬ備後生え抜きの雄族で、一族は備後国中部から東部にかけてひろまっていた。このころの宮氏では兼信(下野守入道道仙)・盛重(平太郎下野権守)二人の名が現れる。おそらく亀寿山城主である兼信が惣領家、盛重はその庶家で宮内あたりに拠を構えており、あるいは先述の桜山慈俊の後であろうかとも思われる(第6章南北朝時代)」と述べ、亀寿山城主を宮氏の惣領家であったと推定している。
ところが、近年、この叙述を否定するような研究発表が相次いでいる。
まず、兼信を宮氏の惣領とする考え方だが、最近では盛重を初代とする宮下野守家が本来の惣領家であって、兼信を祖とする上野介家は兼信父子の活躍で一時的に惣領職を与えられたに過ぎないとする説が定説と化している(『新市町史』)。
では、惣領家である宮下野守家が亀寿山城主であったかと言えば、これも怪しくなっている。
下野守家では、六代教元が文明六年(1474)に「柏村」(福山市新市町下安井)で討死し(徳雲寺記・渡辺先祖覚書)、七代政盛も永正十八年(1521)四月、「柏村」に籠城して敵と戦った(閥閲録一四九など)。
現在、下安井字柏一帯には無数の城郭遺構が残り、これらの史料を裏付けている。
すなわち、宮氏の惣領家である下野守家は、亀寿山城から平野と神谷川を挟んで東北に位置する「柏城塞群」を本拠としていたことが明らかとなった。
宮下野守家の居城柏城跡遠望

とすると伝承通り、兼信を始祖とする「宮上野介家」がこの城を居城としていたかというと、これも怪しい。
兼信・氏信父子が創建した神辺町道上の護国寺の背後には大規模な山城遺構(遍照寺山城)が存在し、上野介家の本城と考えられている。
遍照寺山城が上野介家の本拠と推定されるのは、周辺に宮氏が再興、寺社領を寄進した神社仏閣が多数存在すること、同地が上野介家の本領だった石成荘に含まれることなどだが、記録によると「下野守家」と「上野介家」は「宮惣領職」を巡って長年対立しており、「柏」と目と鼻の先の亀寿山城を本拠とするのは不都合だろうというのが理由だ。
飯尾宗祇の「下草」に、宗祇が宮若狭守(上野介家)に招かれて、若狭守の「城峰高き館」で連歌を催したとあり、山上に広大な曲輪面積を有する遍照寺山城こそ、この「城峰高き宮若狭守の館」にふさわしい。
前々回述べたように、足利尊氏の部将として勢力を拡大した宮兼信・氏信父子が亀寿山城に居城したのは事実であろう。
だが、戦乱が終息し、宮下野守家も幕府に帰順すると、立場が一変する。
平時には「惣領職」がものをいい、本来の惣領家である下野守の立場が強まった。
亀寿山は下野守家の菩提寺中興寺の目前だ。対立する上野介家として、本拠とするにはいささか躊躇する場所だ。
よって本拠を遠く離れた石成荘道上条の遍照寺山城に移した。
以後、亀寿山城は惣領家である下野守家が接収したが、同城のような独立した「男山」は籠城に不利だ。
下野守家は「柏村」に本拠を置き、亀寿山はその支城となった。こう考えてはどうだろうか…。