謎の武将宮氏と亀寿山城 その四
軍記には宮城と出たり…」(『西備名区』)の「軍記」は、前回紹介した『太平記』以外に、『陰徳記』『安西軍策』『吉田物語』『陰徳太平記』など、いわゆる天文3年(1534)の「備後宮城合戦」を記録した一連の毛利氏関係の軍記物語を指す場合もある、というより『西備名区』の言う「軍記」はこちらの方を指すと考えたほうがいいかもしれない。
 一番手に取りやすい『陰徳太平記』の記す「宮城合戦」は、次の書き出しで始まる。
「毛利右馬頭元就は、武田出奔して後、彼の幕下の者共多く随逐せしかば、芸州大半味方となって、武威日の昇るが如く、月の恒なるが如く、日を逐ひ月を重ねて赫赫たれば、弥時の勢いに乗って備後国を切従へんと数日の廟算事おわり、先ず宮の下野入道が籠りたりける宮の城を攻めんとて、熊谷伊豆守信直、天野紀伊守隆重、香川左衛門尉光景、舎弟淡路守元忠以下二千余騎、天文三年二月上旬に、吉田の城を立ちて、備後国へ発向し給う…(十月下旬宮氏は降伏したとある)」
しかし、それまで近隣の宍戸、高橋、武田と言った安芸の国人衆と攻防を繰り返していた毛利氏が、ここで突然備後国に侵入して、長躯品治郡新市(福山市)の亀寿山城に攻寄せたとは考えられない。
天文初年、芸備地方は微妙な情勢にあった。
当時、この地方をめぐっては出雲の尼子氏と周防の大内氏が攻防を繰り返してきたが、天文元年(1531)、尼子氏に内紛が起こると、一時小康状態を迎えた。
大内氏も義興から義隆への家督交代期で、義隆は尼子氏の内紛を幸いに兵を北九州に集め、小弐氏を撃破して大宰府の支配を固めようとした。
このような時期に、毛利氏が単独で兵を起こし、遙か備後の南部まで侵入することが出来たかどうか…。
江戸時代から、この「宮城合戦」が新市の亀寿山城で行われたことに疑問を持つものもいた。
『備後古城記』には、恵蘇郡比和村(現庄原市)の城主として「宮下野入道」の名が書き上げられ、『陰徳太平記』の言う「宮城」を品治郡新市より遙かに吉田に近い恵蘇郡に比定する者もいたのである。
海音寺潮五郎も「武将列伝」の中で、宮下野入道の宮城は、新市の城よりもこちらの比和の城であろうと述べている。
私も「宮城」に関しては海音寺潮五郎の考えに賛成だ。
当時の毛利氏に単独で備後南部まで兵を進める力があったとは到底考えがたい。
それよりも、毛利氏の軍記に言う「宮城合戦」は、『太平記』の記載の「意趣返し」と考えたほうがいい。
太平記』は、足利直冬が宮氏に敗北した時、侍大将の毛利元春(元就の先祖)が真っ先に逃亡したことを風刺して、都の辻に「落書」があったと記す。
「侍大将と聞へし毛利備中守も、佐殿(直冬)より先に逃げたりと披露ありければ、高札の奥に
楢の葉の ゆるきの森(毛利)に いる鷺は 深山(宮)颪に 音をや鳴らん」
太平記』が武士の必読書であった江戸時代、この記述は毛利氏にとって恥辱以外何者でもない。
毛利氏の御用学者は、何とかこの恥辱を文章で雪ごうとした。
事実を捏造してまでも…。
私は、天文三年の「備後宮城合戦」は机上の創作と考えるのだが、如何だろうか。