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亀寿山全景
謎の武将宮氏と亀寿山城 その参
亀寿山城で一番問題になるのは、『西備名区』の言う、「軍記には宮城と出たり…」が、果たして正しいかどうかだ。
軍記とは、『太平記』巻三十八、「諸国宮方蜂起の事」の次の箇所のことだ。
「備後へは富田判官秀貞が子息、弾正少弼直貞八百余騎、出雲より直に国中へ打出たるに、江田、廣澤、三吉の一族馳著ける間、程なく二千余騎に成りにけり。富田其勢を並て、宮下野入道か城を攻めんとする処に、石見国より足利左兵衛佐直冬、五百騎計にて富田に力を合せんと、備後の宮内に出られたりけるか…」
全国を動乱の渦に巻き込んだ南北朝の内乱も、1360年代には終息に向かいつつあったが、幕府に反抗した足利直冬(尊氏の庶長子)が康安二年(1362)南朝に下ると、一時宮方の勢力は盛り返し、各地で南朝方の蜂起が相次いだ。
備後にも出雲の富田氏が侵入すると、江田・廣澤・三吉氏が味方し、一時は侮りがたい勢力となった。
勢いを得た富田は、幕府方の宮下野入道の籠る城を攻め、これに石見から足利直冬が加勢に駆けつけ、備後の宮内に陣を敷いたわけだ。
この「宮下野入道カ城」こそ、亀寿山城ではなかろうか、というのが江戸時代以来、郷土史家の定説となっている。
『備後古城記』にも、新市村亀寿山として、
宮下野守兼信 元弘年中
同下野次郎氏信貞治年中
の名を挙げ、『太平記』に出てくる「宮下野入道か城」を暗にこの城に比定している。
この比定が正しいかどうかは、『太平記』の文章と、現地の地形を比べることで検証出来そうである。
『太平記』は次のように述べている。
「(宮下野入道が)逆寄によせて追い散らせとて、子息下野次郎氏信に、五百余騎を差し添え、佐殿(足利直冬)の陣を取りておはします宮内へ押し寄せ、懸立て懸立て責めけるに、佐殿の大勢共立足もなく打ち負けて、散々に…」
この文章によると、宮下野入道は、子息下野次郎氏信に命じて、宮内に本陣を置いていた直冬方に「逆寄せ」攻撃して追い散らしたとある。
逆寄せとは、篭城側が逆に攻め手を攻撃したことを指す。
「宮内」を現在の吉備津神社門前の大字宮内とすると、「逆寄せ」に出来る場所は吉備津神社裏山の鳶尾山城か、この亀寿山城に限られる。
氏信は五百余騎の軍勢を率いて直冬勢を攻撃したとあり、別に父下野入道の手元にも兵力を残していたであろうから、五百余騎以上の兵力を収容できる広さの城でなければならない。
この点、鳶尾山の曲輪面積は狭く、この大兵力を容れるスペースがない。
やはり、広大な城域を占める亀寿山こそ、『太平記』に出てくる「宮下野入道カ城」にふさわしいと言える。
また、この推定は現地に残る遺構からもいえることだ。
亀寿山に残る城郭遺構は、痩せ尾根を削平して曲輪とし、曲輪と曲輪の間に堀切を設けて防備としている。
これは典型的な南北朝時代の山城の作りだ。
やはり、「軍記に宮城と出たり」という『西備名区』の記述は正しいとしなければならない。