東の大佐山運動公園より見た亀寿山

謎の武将宮氏と亀寿山城 その弐
亀寿山城で、次に問題になるのは「城名」だ。
近世の文献には、この城のことと考えられる城名が、各書に散見する。『西備名区』は、巻四四品治郡新市村亀寿山城のところに、「或いは亀一山又亀地山共いふ。軍記には宮城と見えたり」と記し、「亀一山」「亀地山」と表記される場合もあったことを述べている。
『西備名区』と双璧をなす『備陽六郡志』も、「小野宮古城」として、「亀地山、また亀寿山共云」と記し、さらに「おおさ山の続、上安井の分に一宮の鏡石といへる有、是と相むかへり。一宮此所へ光臨有て、鏡にむかひ給ふゆへに神道山といふともいへり」と「神道山」と書く場合もあったことを述べている。
『備陽六郡志』のこの記述は、大いに注目される。
実は、亀寿山城のことではないかと考えられる古文書が唯一通、現在も伝わっている。
萩市郷土資料館所蔵の「湯浅家文書」の次の一点である。

今度外郡神持山要害執り付けられ候の処
出張あり馳走の由貞盛披露を遂げ候
其れに就いて直札を以って申され候
よって太刀一腰無銘 之を進らせられ候
其の心を得、之を申すべく旨に候 恐々謹言
五月二六日    興滋 判
           隆言 判
           隆著 判
           隆満 判
   湯浅五郎次郎殿 御宿所

この文書は、天文二十二年(1553)四月、備後国人江田隆連の尼子方「現形」(うらぎり)による動乱の中で、大内氏が「外郡神持山要害」の修築を行い、備後国人湯浅元宗が「貞盛」に協力して実際の普請にあたった事を示すもので、署判者の興滋(吉見)・隆言(小原)・隆著(青景)・隆満(陶)は何れも大内氏重臣である。
『備陽六郡志』の記述を参考にすると、この文書の中に出てくる「神持山」こそ、本稿の主題「亀寿山城」のことだ。
亀寿(かめじゅ)、亀一(かめいち)、亀地(かめち)、神道(かみち)、神持(かみじ)と、表記は異なっても「かみじ」「かみち」というのが、本来の発音で、漢字に表記するに際して、「神持」から目出度い「亀地」「亀寿」に宛字が変化していったのであろう。
この文書でもう一つ注目したいのは湯浅元宗の「馳走」を披露した「貞盛」なる人物だ。
文意をたどる限り、貞盛は天文二十二年の時点で「神持山要害」の守将と考えて間違いなかろう。
貞盛なる人物に関して、今のところ他に例証はない。が、実名の下に宮氏の通字である「盛」を使っているところを見ると、宮氏の一族ではなかろうか。
盛重・師盛・満盛・満重・元盛・教元・政盛と続く宮氏惣領家の世代の中に貞盛の名はないが、『知新集』所収の「粟根文書」には、政盛感状と共に、「泰盛」なる人物の発給した感状も伝えられており、内容からして宮氏の一門と考えられる。
「貞盛」も宮氏の一門で、大内氏に味方して先祖相伝の由緒ある「神持山要害」を保った人物と考えたい。