対岸の相方城から眺めた亀寿山城跡

謎の武将宮氏と亀寿山城 その壱
備後の山城を語るとき、避けて通れないのは宮氏の存在だ。
『備後古城記』に見える山城だけを取り上げても、上御領の茶臼山、湯野の山王山、徳田の天神山(既出)、中条の井出上、山野の戸屋ケ丸、北山(加茂町)の滝山、下加茂の正戸山(既出)、新市の亀寿山、宮内の鳶尾山、上安井の下迫、下安井の柏城、雨木の泉山(既出)、法成寺の掛迫・小井(既出)、宮氏の一族有地、久代、高尾氏などの城も含めると、総数24箇所以上にのぼる。
宮氏の勢力下にあった城も含めれば、倍の50箇所は軽く超えるだろう(古城記に記された城跡の数、実数は更に増えるはず)。
これらの山城の中で、一番有名で、しかも「謎」が多いのは新市町新市の亀寿山城である。
JR福塩線新市駅に降り立つと、眼前に黒々とした山が迫ってくる。
これが亀寿山だ。戸手の「喧嘩みこし」の「お旅所」となっている部分も城跡の一部で、ここから山頂本丸を目指すのがわかりやすい。
「お旅所」の上は径20メートルほどの平坦地となっていて、曲輪の跡だ。ここから北に「お大師道」をたどって行くと、本丸の直下あたりで、急に険しくなる。まるで天然の胸壁だ。
一部「クサリ」の難所を越えると本丸東下の段に出て、左に進むと山頂本丸だ。
雑木が茂って見通しが利かないが長さは70メートル近くあったと思う、巾10メートルから15メートルくらいの細長い曲輪だ。
足元をよく観察すると、南の縁の岩盤に柱穴がある。当時の建物の跡だ。
本丸に残る柱穴

さらに大師道に沿って進むと、大きな空堀を越えてほぼ同じ高さの二の丸がある。
こちらも50メートルくらいの細長い曲輪で、東南の一番広いところに石鎚神社が建っている。
ここは境内地となって管理されているためか眺望が良く、南正面の相方城山から府中の八尾山を見通すことが出来る。
南の一部には石垣も残り、「旗」を立てたと思われる大きな穴の開いた石がある。
ここから南に緩やかな曲輪に利用されていたと推定されるスロープを下ると、空堀を経て三の丸にいたる。
三の丸は上下2段に別れたこれも50メートル近い細長い曲輪だ。
本丸、二の丸、三の丸の他に、東西の山頂から北と南に流れる尾根上にも無数の曲輪跡と空堀が見られる。
なかでも本丸から北に伸びた尾根上には連続して大小の曲輪が築かれ、更に東に派生した尾根上も削平されて曲輪に利用されている。
全体的に見て、南側よりも北側の防備が厳重で、北を大手とした城と見ることが可能だ。
とすると、現在は古代の山陽道と考えられている県道新市御領線が南の麓を通っているが、中世、城があった時代は北の、桜山との間を街道が通っていた可能性が高い。
城は北の街道、吉備津神社側を正面大手として、芦田川の流れを背後の搦め手とした極めて堅固な城塞であったと推定される。
元和5年(1619)、備後10万石の大名となった水野勝成は、この亀寿山も新城の候補地に挙げたと伝えるが、あながち荒唐無稽な話ではない。