北から見た阿草の城山

戦国の城塞阿草城 
戦国真っ只中の備後南部の様子を書き残してくれた記録に、『中書家久公旅日記』というのがある。
天正三年(1575)春、伊勢参宮を思い立った鹿児島の島津家久の旅日記で、備後には同年の3月晦日尾道に上陸し、4月1日に今津の河本四郎右衛門宅に宿泊、翌日熊野から山越えに鞆に至り、舟で上方に旅立った。
この旅日記の中には当時の山城の様子を記した箇所もあり、貴重な記録となっている。
私が関心を持っているのは、尾道から今津に至る途中にあったと言う、「鬼のようなる城」だ。
「鬼のような」とは、何を形容しているのか…。
「鬼」というのは中世では、「荒々しい、恐ろしい」を意味する、とすると「鬼のようなる城」とは、見るのも恐ろしいような、身の毛もよだつような防備の厳重な城、と言う意味だろう。
当時の山陽道は既に海岸沿いを通っており、尾道からは「坊地峠」を越え、高須を通って今津に通じていた。
この間に家久が目にすることが出来た城は、3箇所。高須の松尾・関屋・阿草の3城だ。
この内、松尾城は高須杉原氏の居城で街道は城山の麓を通っている。関屋城はその名の通り、街道の関所があったところで、本格的な城塞ではない。
「鬼のようなる城」は、松尾城であろうか…。
だが、この城には取り立てて家久を驚かせたような防御施設の跡は残っていない。
山頂に2段の小さな曲輪跡が残っているだけだ。
私が注目したいのは、高須の一番北にそびえる阿草の城だ。
この城には、14年前に備陽史探訪の会のメンバー20名ほどと登り、縄張図を作ったことがある(備陽史探訪の会刊『山城探訪』に収録)。
規模的には松尾城とさほど変わらない。山頂に2段の曲輪と東側に一段下がってやはり2段の曲輪があるだけだ。
驚いたのは曲輪の周囲にぴっちりと築かれた「竪堀」群である。城の全周を隙間なく巡る竪堀群を見たとき、「この城は何だ」と思わず声を上げてしまった。
以前にも紹介したが「竪堀群」は、戦国中期の天文・永禄年間に畿内で発達した築城技法で、瞬く間に全国に広がり、南は九州から北は東北まで、多くの山城に設けられている。
家久は、この阿草城の竪堀群を遠望して、「鬼のような」と形容したのではあるまいか…。
当時の山城は延焼と忍者の侵入を防ぐために、曲輪や竪堀の周囲の樹木は伐採されており、遠目にもその様子は眺めることが出来たはずだ。
九州、特に薩摩・大隅の戦国は、畿内や中国地方とは大分遅れたものであった。
島津氏が国内と同族を統合してようやく戦国大名となるのは、丁度この頃である。築城術も四五十年は遅れ、この頃になってやっと本格的な戦国山城が築かれるようになった。その山城後進国の島津氏から見ると、この阿草城は、驚くような進歩的な城であったに違いない。
この城に厳重な防備が施されたのは、ここが古志氏の勢力圏と杉原氏のそれとの「境目」であったからだ。
元亀三年(1572)、古志氏は木梨領内に討ち入り、猪子迫(尾道市)で合戦があった。逆に木梨氏が古志領内に攻め込むこともあった。
兵庫・大町・阿草と連続して山城が築かれた理由だ。
阿草の城には、古志氏の一族、三郎左衛門尉景勝が居城し、南の高須杉原氏に対抗した。景勝は在名「高須」を称し、本家滅亡後もこの地に居住した。
『毛利家八箇国時代分限帳』にも、「九十石四斗七升 高須三郎左衛門 内五十石神石郡・四十石四斗七升沼隈郡」と見えている。