関屋城址を通る西国往還

街道の関所だった関屋城 
中世は、中央集権が崩壊し、徹底的に地方分権化された時代である。
例えば「関所」だ。
古代、関所の設置や停廃は天皇の権能であった。
中世でも変わらない。
京都の七口に置かれた関所の権利は天皇の委任を受けた公家の収入になった。
だが、南北朝の内乱を経ると京都朝廷の権力はほとんど室町幕府に吸収され、関所の設置も幕府将軍の権能の一つとなった。
応仁の乱の後、八代将軍義政の妻日野冨子が京都七口に関所を置き、怨嗟の的となったのはそのことをよく示している。
そして、地方においても在地の国人領主の力が強まると関所が乱立するようになった。
有名な話では、寛正3年(1462)、淀川の河口より京都まで、何と380箇所の関所があり、そのため洛中が疲弊したと言う(『蔭涼軒日録』)。
また、同じ頃、伊勢街道では桑名から日永までの間に60箇所の関所があったという。
これらの関所は誰が設置したか、在地の国人土豪たちだ。
関所を置き、「関銭」を徴収すれば、濡れ手で粟の収入になる。
旅人や商売人にとっては迷惑な話だが、これが偽らざる中世後期の現実だ。
山城と街道の関係を見ると、街道に接して、或いは城内を街道が走っているような城がまま見受けられる。
これらの城は、ほぼ間違いなく「関所」の役割を果たしていた。今回紹介する、尾道市高須町の「関屋城」がその典型的な例だ。
関屋城は、北に高く、南に低くなる高須の地形の中で、ほぼ中央に位置する。北から南に伸びた丘陵が海になだれ込む場所に築かれた山城跡で、宅地造成によって現在はほとんど遺構を残していない。
注目されるのは、旧山陽道との関係だ。
中世の山陽道は、神辺から南下して、郷分で芦田川を渡り、山手、津之郷から今津に至り、更に、高須の海岸部から西に山越えして、久保から尾道に入っていた。
関屋城は、この山陽道が高須の丘陵に取り付いたところに存在する。
遺構が残っていないとはいえ、城名、立地からして関所の役割を果たしていたことは間違いない。
現在は新田の開発によって海から離れているが、城があった時代、城下は海岸線だったと推定され、人々は城内を通らなければ街道を通行できないようになっていた。
城主は杉原氏と伝わっている。
杉原氏は、関屋城から西南3キロの松尾城を本拠としていたが、北方の阿草城の古志氏に対抗するためにこの地に城塞を築き、併せて街道の「関所」として収入を得ようとした。
高須に本拠を置いた杉原氏は、南北朝時代に活躍した杉原信平の後裔木梨杉原氏の庶家だ。
信平の曾孫行勝が福田庄高須の地頭職を譲られこの地に入ってきた。
行勝が譲られた高須は「三分の二」地頭職で、北部の阿草には後に古志氏が入ってきたのは以前に述べたとおりである。
この高須杉原氏の本拠松尾城も旧山陽道と密接なかかわりを持っていた。
城の西南を街道が走り、約五百メートルで「坊地峠」に至る。
「坊地」は「傍示」で、中世では境界を表す。高須と木梨の境を示していると見て間違いない。
松尾城の麓の居館と推定される場所は、旧街道の直ぐ上だ。
ここにも関所があったのではないか、とすると、この杉原氏は領内の東と西の境界付近に関所となる城を構えて「流通」を支配しようとしていたことになる。
おそらくこれは高須杉原氏だけの特殊な例ではなく、他の国人領主も大なり小なり、領内に関所を置き、「流通」の支配を試みていたはずだ。