嶽ヶ端城跡付近

山波嶽ケ端城と下見氏
開発によって失われた山城跡も多い、今回紹介する尾道市山波町の嶽ケ端城跡もその一つだ。
この城は、中世高須荘の一部であった山波の丘陵に築かれた山城跡で、現在は開発や造成工事で破壊され、痕跡もとどめていない。
かつての姿を想像すると、高須の福禅寺裏山から南に延びた丘陵の突端に築かれた城郭で、城が存在した時代には周囲に海が迫っていたと考えられる、いわゆる「海城」だ。
城主を下見氏という。
今は存在しない嶽ケ端城が「海城」ではないか、と推定するのは城主下見氏の性格による。
下見氏が城主であったと伝わる城跡は、山波の対岸尾道市浦崎町に2ヵ所存在する。
戸崎城と城端新城だ。何れも往事の海岸線に沿って築かれた海城で、戸崎の城は山波嶽ケ端城の対岸に位置する。
さらに、下見氏は高須杉原氏の家老であったという伝承もあり、この推定を補強する。
前回関屋城のところでも述べたが、杉原一族中でも高須の杉原氏は特に流通交易にかかわりの深い一族であった。
後のことになるが、毛利氏に属した高須惣左衛門元兼は、毛利輝元から長州赤間ケ関の代官に任命されている。
また、高須杉原氏には中国「明国」万暦12年(1584)の日明貿易船旗が伝来しており、同氏が如何に交易に熱心であったかを示している。
下見氏は、この高須杉原氏の配下として、松永湾口に海賊城を構え、「帆別銭」を徴収していたのであろう。
こうした権益はほとんどが「請負」で、高須氏に一定の上納銭を納めればあとは下見氏の収入になった。
嶽ケ端城や戸崎城の城下に田畑が少ないといっても侮ってはいけない。こうした「関銭」の収入は相当な額に上ったのである。
下見氏は、近世の文献に高須杉原氏の「家老」として紹介されているが、実は室町時代前期から「守護被官」として活躍する者もいた。
世羅郡伊尾(世羅町)の鳶ケ丸城主と伝わる「下見加賀守」がそれだ。
下見加賀守は、有名な山名宗全の次男で備後守護職を継いだ山名是豊の被官として、当時の文書・記録に散見する。
「東寺百合文書」の播磨矢野荘に関する記録に、代官職をめぐって是豊の奉書を得るために「弾正殿(是豊)千疋、下見五百疋、阿部野二百疋」の費用がかかったとあり、加賀守は守護被官の中でも相当な実力者であった。
また、加賀守は備後国内に所領を持つだけでなく、守護の権力を背景に播磨矢野庄(兵庫県相生市)の「難波佐」代官職をも「所望」しており、東寺の「拒否」にあっている。
守護被官として活躍した下見加賀守と、嶽ケ端城や戸崎城の下見氏の関係だが、世羅郡からこの地に移って来たという伝承が正しいようだ。
一説に、下見氏は高須杉原氏と同じく杉原氏の一族であったといい、当初は守護被官として活躍し、守護山名氏の没落後、同族の高須杉原氏を頼って山波や浦崎にやってきたのだろう。
中世最末期の姿は、『毛利家文書』に見ることが出来る。関が原合戦の前哨戦「尾張国野間内海合戦」の首注文(382号)がそれで、慶長5年(1600)九月九日の合戦で「下見太郎左衛門家中」が敵の首を「八」捕っている。
家来に「田頭弥左衛門」など今でも松永で著名な苗字があるから、浦崎や山波の下見氏に間違いない。
そして、この文書によると、この時期には下見氏は高須氏から離れ、毛利氏の直接の家臣となっていたことも判明する。