正面丘陵の突端が城跡で、その右の平野がかつての港の跡である

中世の藁江港を監視する織機城
そこは眺望の素晴らしい場所だった。
過日、地元の人に案内されて、藤江町の「織機城跡」と言うのに案内された。
東の沼隈半島の丘陵から「飛び地」のようになった藤江町の丘陵部の北端で、東西北は切り立った崖になっているが、比高はさほどない。
南の民家の背戸から登っていくと、頂上が百坪ほどの平地になっていて、神社が建っている。
よく見ると平地の周囲には一段下がって細長い平坦地が取り巻いている、「帯曲輪」だ。南の尾首にあたる所は墓地になっていて「堀切」は見当たらない。
だが、立地、構造を見るとまぎれもない中世の城跡だ。
注目したいのは、その立地だ。
今でこそ平野に孤立する小山だが、周囲はほとんど江戸時代以来の干拓地だ。
これらの近世になって陸化された部分を取り去るとどうなるか。
城は、松永湾から更に東に入りこんだ入江に、南から北に突出した「岬」に築かれた「海賊城」となるではないか…。
そして、城の東に、北から南に入り込んだ「入江」は、中世の「港」として格好の地勢を占めている。
「この場所こそ、中世の藁江港に違いない」、これがこの地を最初に訪れたときの率直な私の感想である。
「藁江港?藁江は金江町の一部で内陸だよ…」という声も聞こえてきそうだが、今でこそ藁江は金江町の一部の小地域になってしまったが、実は戦国時代までの中世では、金江、藤江、浦崎を含む広い地域が「藁江荘」と呼ばれる荘園であった。
藁江荘は、松永周辺の「新庄」「神村荘」と共に平安時代末期以来、京都の石清水八幡宮の荘園であった。
今、金江町に「金見八幡」と呼ばれる八幡社が岡の上に鎮座しているが、石清水の分霊で、荘園全盛の時代には、藁江荘の「政所」の役目を果たしていた神社に間違いない。
藁江荘で注目されるのは、「海」とのかかわりである。
まず、この荘園には多数の「塩浜」があり、「塩」を年貢として荘園領主に納めていたことがわかっている。
「なた浜」「野島浜」など、現在でも地名として残っている場所もある。
更に注目されるのは、この地が港として栄えていたことだ。
室町時代の瀬戸内海一帯の港の史料として「兵庫北関入船納帳」と呼ばれる資料がある。
今の神戸港の前身にあたる「兵庫港」に入港する船に課せられた「関銭」の徴収記録で、当時の瀬戸内の様子を知る大きな手がかりとなっている。
納帳には入港した船の船籍と積荷が記録されていて、備後の地名としては「鞆」「田島」「藁江」「尾道」「三原」「因島」の6箇所が見える。当時栄えた備後の港町と見ていいだろう。
この中に「藁江」港があるのだ。何度も言うように、地形からして、この「藁江港」は、織機城の東に北から南に入り込んだ「入江」と見て間違いない。
そして、もう一つ注目されるのは、藁江籍の船の肩書きに「国料船」とあることだ。
入船納帳は室町中期の記録だから、「国」と言えば、国司よりも「守護」を意味する。
当時の備後守護山名氏の持船と見ていい。
少し時代は下るが、明応年間(1492〜1501)の文書に守護山名氏が藁江荘を支配していた記録があるから、「藁江港」も守護の支配下にあったはずだ。
当時のことだから、港を支配するというのは、城を築いて武力で船の出入りを管理、要するに「関銭」を徴収することを意味する。
藁江港の場合、その「城」こそ、入江の西にそびえる織機城であった。
「西備名区」に、「此城主分明ならず。一説、工藤氏の持城なるべし」とあって城主の伝承を失っていたようだが、「工藤氏」というのは、当たらずとも遠からずだろう。
守護被官として港の支配にあたった。
工藤氏は伊豆国を本貫地とした著名な武士団、鎌倉時代より水運と深いかかわりを持っていた。