田島天神山城址、左手の岬突端

海賊村上氏の拠点田島天神山城
福山駅前から沼隈方面へ車を飛ばして約30分で、内海大橋を渡って内海町田島に入る。
右手に道を取って内海町の中心部を目指すと、町に入る手前で道路は大きくカーブし、前方にのしかかるような黒々とした小山が迫ってくる。
戦国時代、「海賊」村上氏が拠った天神山城だ。田島の最高地点、標高328メートルの高山から分かれた標高299メートルのピークから西北に流れた稜線の突端に築かれた山城で、背後を空堀で劃し、海に向かって2段の曲輪を築いている。
最高所の曲輪には天神社が祀られ、参道を登れば誰でも城跡を訪ねることが出来る。
現在では城跡の周囲は埋め立てられて道路や住宅地になっているが、往事は海に突き出た岬だったと考えられ、典型的な「海賊城」だ。
西側に「番川原」の地名が残っているように、ここには海の「番所」が置かれ、田島の港や本土との間の瀬戸に入港する船から「帆別銭」と呼ばれる通行税を徴収していた。
天神山城址の本丸跡

ここでちょっと「海賊」と言う言葉について説明しておこう。
因島などで、村上氏のことを「水軍」と呼ぶが、実はこの言葉、村上氏が活躍していた時代には存在しなかった言葉だ。
当時は、そのものズバリ、村上氏のことを「海賊衆」と呼んだ。室町幕府は中国の「明」と勘合貿易と呼ばれる交易を盛んに行ったが、幕府の派遣した貿易船の警備にあたったのは村上氏を初めとした「諸国海賊衆」であった。
「海賊」という言葉は、その後ヨーロッパの海賊物語が日本に入ってきて、「悪」のイメージが強くなったが、日本では豊臣秀吉が「海賊禁止令」を出すまでは、海上の治安を維持するのが海賊の役目で、幕府も公認した存在であった。
瀬戸内海などの海上航路の安全は海賊衆が保障し、帆別銭などの税金を払わなかったり、「廻船式目」などの海の法令を守らない者に対しては、容赦なく実力行使して、積荷を没収した。
海賊衆の中でも、戦国時代にやってきたキリシタン伴天連に「日本の大いなる海賊」として恐れられたのが村上氏であった。
村上氏は、信濃国更級郡(長野県)村上郷を名字の地とした陸上の武士団で、その一派が源氏に従って平安時代後期に伊予国(愛媛県)に移住したことから海の武士団「海賊衆」として発展した。
ただ、この村上氏(前期村上氏と呼ぶ)は南北朝時代南朝方の武将として活躍した村上義弘に子がなく絶え、南朝の忠臣北畠親房の子孫が跡を継承した。
これが「後期村上氏」で、「能島」「来島」「因島」を本拠に、戦国時代には瀬戸内海の中央部を押さえ、「沖家」として戦国大名並の勢力を誇った。
この村上一族が備後国田島に勢力を及ぼしたのは、室町時代前期の正長元年(1428)のことだ。当時の備後守護山名時煕因島の村上備中入道に「多島」の地頭職を「給分」として与えたことに始まる。「多島」すなわち内海町田島だ。
以来、田島は海賊村上氏の勢力下で戦国末期に至っている。
天神山城は、この村上氏が田島を支配すると共に、本土との間の瀬戸を見張るために築いたものだ。
『西備名区』によると、永正年中(十六世紀初頭)、村上八郎左衛門尉が居城し、大永年中(1521〜28)には同左近大夫範和が拠った。
さらに同書によると、天正年中(1573〜92)に居城した村上志摩守則宗は、その後対岸の常石に移住して「田島」を称し、孫の代になって水野家の公募に応じて走島に入植した。これが江戸時代、走島の庄屋を務めた村上氏の先祖だという。