宮弾正左衛門尉利吉が居城した、備後國奴可郡久代飛田山城跡

久代殿―宮弾正利吉の物語―
 東城町の久代に柴橋堂と呼ばれる辻堂がある。久代の中心部宮原から成羽川
架かる橋を渡った処にある堂で、中に数体の石地蔵がまつられている。
 戦国時代、西城東城一帯に勢力を張った久代宮氏の始祖、宮弾正左衛門尉利吉
一行が備後國久代に配流となり、まず長旅の埃を払ったのがこのお堂と伝わっている。
 利吉一行がここで途方にくれていると、土地の飛田何某が現れ、一行に何くれ
と世話を焼いてくれた。時に今から600余年前の応永六年(一三九九)晩秋の
ことという。

 配流の原因は、「明徳の乱(一三九一」で将軍義満に叛し、敗れた山名氏清
味方した為という。乱から八年を経た応永六年になって将軍の裁定が下ったとい
うのも変な話だが、応永六年は周防山口の大内義弘が泉州堺に拠って将軍に叛し、
敗死した年に当たり、このことも利吉の配流の理由の一つかもしれない。

 それはともかくとして、利吉は住み慣れた大和の国宇陀郡を離れ、妻子と年来
の郎党三〇余人と共に備後に旅立った。難波の津では
「難波江の 短き葦の世の中に 憂き目重なる 身こそつらけれ」
と詠み、明石の浦では
「明石潟 今宵はここに舟宿り 明日の出塩の 舟をしぞ思う」と詠んだ。

 利吉一行は船で備後国鞆の浦に上陸したようだ。彼は漢詩にも長けていた
ようで、鞆では次の詩を賦したと伝わる。

「秋日清明淡一空
 杏々蒼海棹歌中
 商声応気素風冷
 帰燕忘時奈此躬」

久代では妻子の詠んだ歌も伝わっている。
北の方
「古里を 出てまた見ぬ梅なれど 主尋ねて匂い来にけり」
子息左兵衛景英
「梅の香を 吹き来る風のなかりせば たれか知らせん古里の宿」
 利吉一行を迎えた里人の心栄えは優しいものであった。貴人とし
て遇された利吉の一家は所の主と崇められるようになり、久代の河内
というところに方一丁の館を構え、土地の人から「久代殿」と敬称さ
れるようになった。

 これが戦国期、東では備中に侵略し、西では地毘庄の山内氏と備北
の覇権を争い、さらには中国山地を越え、伯耆日野郡、出雲仁多郡まで
凡そ十一万石を領する大名となった西城東城の宮氏の起こりだという。

 話は続く、利吉から七代の上総介高盛は知勇兼備の名将として知られ、
志高く仁義に厚く、利欲を忘れて衆を撫で、呉氏孫氏の奥義を極めていた
ため、近隣の諸氏が風を望んで与力し、門外に馬を繋ぐ者が引きも切らなかった。
 天文二年(一五三三)、高盛は奴可郡西条に大富山城を築いて本拠とした。

宮高盛が築いた大富山城跡

また、備中からの侵略に備えて同郡川西に五本嶽城を築いて家臣の渡辺内蔵を
入れた。時の人、大富山を久代方西城、五本嶽を久代方東城と呼び、これが
現在の東城西城の起源となった…。
◇  ◇  ◇
 この話、名族の起源として誠にふさわしいものである。だが、残念ながら
七代高盛以前の伝えはこれを証するものが全くない。かえって南北朝時代以降、
奴可郡は備後宮氏の惣領家宮下野守家の所領であったことは、史料が明白に
語っている。この「ギャップ」は何を意味しているのか、備後戦国史の謎の一つだ。