現在は近田八幡神社境内になっている近田堀の土居城跡

近田堀の土居城と近田宗左衛門
 JR福塩線近田駅の西に「堀の土居城」と呼ばれる中世の城館跡がある。比高三十メートル
ほどの丘で、頂上に近田の八幡神社が祀られている。城の「曲輪」を利用して神社が建てられ
たようで、東からの参道周辺をよく観察すると、段々に削平された曲輪の様子を見て取れる。
広島県の「中世城館遺跡総合調査報告書」によると、西北の、福塩線を挟んだ丘陵にも城郭の
遺構が残り、相当な規模の山城であったようだ。
 だが、城主や城の来歴などはあまりよくわかっていない。『備後古城記』を見ると、
品治郡近田村堀土居城は、「堀の内」ともいい、城主は近田宗左衛門で、「延元紀元」に
足利尊氏から岩成の庄を賜ったとある。
 この「延元」年に尊氏から岩成庄を拝領したと言う記載は、江良村土居城の江良与市
太郎忠実、倉光村倉光二郎実重のところにもあり、近田宗左衛門だけにかかわる事項で
はないようだ。江良村や倉光村の書き上げには、何れも「岡崎四郎義実末流」とあり、
「岩成庄」を尊氏から拝領したのは岡崎義実の末流の誰かで、その子孫が村々に土着して
それぞれ「江良」や「近田」「倉光」など在名を名乗る領主となった、というのが伝承の
粗筋であろう。『西備名区』等には、尊氏から岩成庄を拝領したのは江良忠実であると、
記してあるが、古城記の性格、村々の最後の城主を書き上げた記録、と言う観点からすると
信用できない。
 実際、『備後古城記』に書き上げられた、これらの城主の名前は中世最末期の史料で確認
できる。『毛利氏八箇国時代分限帳』がそれだ。同分限帳は、天正19年(1591)に
毛利氏が実施した「惣国検地」に基づいて作成されたもので、当時の備後の様子を知るこ
との出来る好史料だ。
 同分限帳に出てくる付近の在地領主と考えられるのは左の者である。
六十六石余 江良久三郎
三十石余  同 左衛門尉
十九石余  中島孫右衛門
十三石余  同 六右衛門
二十四石余 近田惣左衛門
 「近田惣左衛門」は「惣」「宗」の違いはあるが、近田村堀の土居城主と伝わる近田宗左衛門
と同一人物であることは間違いない。江良久三郎同左衛門尉も、古城記などに江良村古城主
とされる江良氏に違いない。中島孫右衛門同六衛門も、中島村の在地領主で、或いは石崎城主
の石崎氏のことと思われる。
 このように古城記の記載が比較的信用できるということになれば、次に問題になるのは、
「岡崎四郎義実末流」という記載と、「延元年」に「岩成庄」を足利尊氏から拝領したという
伝承だ。
 岡崎義実は、相模三浦氏の有力な一門、岩成庄は中世神辺平野の大部分を占めた「石成庄」
のこととだ。石成庄は南北朝時代、京都の天竜寺領となり、地頭として長井氏、宮氏の名が
知られているが、「岡崎氏」の名は史料に出てこない。しかし、「末流」近田宗左衛門、
江良久三郎が実在の人物とすれば、その先祖「岡崎四郎末流云々」という伝承も一概に否定
できない。石成庄と岡崎氏の関係など、今後の研究課題だ。