戦国時代、備後国人有福民部大輔元貞が居城した有福城址府中市上下町有福)

有福元貞(?〜1589)
備後國甲奴郡有福(現広島県府中市上下町有福)を本拠とした国人武士。
初名源三郎、後民部大輔、伊賀守。
父は和智氏の庶流尾越越中守朝実。

尾越家は兄孫右衛門元朝が継いだが、毛利氏の元に人質に出されていた元貞は
次第に元就、隆元、輝元の信頼を得て「有福要害」を預けられ「有福」の家を起こす。
天正三年(1575)備中国吉城の二の丸を預けられる。天正八年(1580)には
美作に出陣し、惣領の和智元郷と共に寺畑、宮山両城の在番を勤める。

毛利氏はこの功を認め、同年八月には大田庄井堀十八貫の在所を安堵、十一月には
備前馬屋郷百五十貫を与えられる。
更に翌天正九年(1581)七月には、無人となっていた有福要害を預けられ
一城の主となった。

天正十四年(1586)には毛利氏の九州出陣に従軍し、豊前香春嶽要害の合戦では
豊臣秀吉の御内書を拝領している。

元貞の後は嫡子貞茂が継ぐが、早世したため次男の元久が継ぎ、慶長五年(1600)
の関が原合戦後、毛利氏に従って長州萩に移住した。

猶、天正一九年(1591)九月二十五日の毛利氏奉行人連署打渡状によると元久
所領は甲奴郡有福村など一九五石余、また「毛利家八箇国時代分限帳」では三百四十四石余、
有福源介とある。
(出展)「萩藩閥閲録」103尾越正右衛門、
広島県史古代中世史料編?所収「有福文書」など、田口義之