芦田町本安寺に残る有地氏の石塔

平野の中の小丘に築かれた最小山城「宿久茂塚」
 各地の城跡を見てまわっていると、驚くような小規模な山城跡に
出くわすことがある。今まで見た中で、一番規模が小さかったのは、
世羅町堀越の「月山城」だろう。高さ20メートルほどの円錐形の
小山の山頂に神社があり、平らになっている。よく見ると社の背後
に土塁がある。確かに山城の跡だ。『芸藩通志』をひも解くと、小
寺十郎左衛門の居とある。

 福山市内にも、小さな山城跡が残っている。新市の柏周辺と、宮
内の「一宮さん」の周りには、小さな山城が密集する。何れも50
坪ほどの曲輪に10坪前後の小曲輪が付属するだけの簡単なもので、
単独では意味をなさない。だが、柏の城郭群などは、全体で見ると
規模雄大な山城の群れを構成し、一つの山城として機能していたこ
とがうかがえる。記録を見ると、備後最大の豪族、「壱萬六千貫の
宮殿」と呼ばれた宮氏の惣領、宮下野守が、応仁文明の乱の最中と
、永正18年(1521)にこの城に立て籠もったことが知られ、全
体が宮氏の本拠として機能していたことがわかる。一宮さん周辺の
山城も宮氏が築いた城塞群のひとつであろう。

 柏や宮内の小さな山城を除くと、福山市内で最も小規模な山城は
芦田町福田の「宿久茂塚(すくもづか)城」だろう。山城といっても、
高さは5メートルほどしかなく、北30メートルのところにある芦田
川の土手の高さと変わらない。だが、現地を訪ねてみると、紛れもな
く戦国城塞の跡である。

 芦田川の土手から見ると、単なる小さな「森」にしか見えないが、
確かに小山となっていて、頂きに神社がある。南から参道を登ると、
左右に「土塁」が見られる。さらに、神社の背後にも土塁が残り、確
かに城郭として使用された痕跡がある。目を凝らすと、小山の中腹に
は「切岸」と考えられる加工の跡が残っている。「切岸」は、中世山
城を観察する場合、最初に確認しなければならない遺構で、人工的に
崖を造ったものだ。

 このように、小規模とはいえ、この城は「切岸」「土塁」「曲輪」
を備えた立派な山城だ。

 現地に立って見ると、北に芦田川が流れ、周囲は広々とした美田が
広がり、「見張り用」の砦としては格好の位置を占めている。

 戦国時代、芦田町一帯を支配した有地氏の伝承を記した『相方城主
有地殿先祖覚』によると、野心に燃える有地隆信は、隣接する福田の
領主福田氏を討って同地を併呑し、「福田才町すくも塚と申すところ」
に弟の有地玄蕃を「押さえ」として置き、自らは居城を大谷城に移し
たという。

 大谷城は芦田町の中心に聳える大規模な戦国山城だ。隆信は大谷に
居城を構えると共に、北方の押さえとして、この城を築き、実弟を城
番として置いたのであろう。

 だが、立地規模から見て、長く使用されたとは考えがたい。有地氏
は、その後、新市町の戸手から駅家町の近田辺りまで勢力を広げてい
るから、有地氏の勢力拡大と共に自然に廃城になったと考えられる。