柏の観音堂山から見た椋山城跡、中央の山頂が平らな山がそれ

巧みに地形を利用した、室町後期の山城「椋山城跡」
 福山古墳ロードは、服部大池から近田駅までがAコース、加茂町江木神社までがBコース、北の服部雨木の泉山城跡までがCコースの3コースだ。最後のCコースにも山城跡が3箇所含まれている。
 Cコースは、服部大池の西側の道路を通って雨木に向かう。最初に出会う山城跡は、「新山城跡」だ。道は池の北端辺りから小さな峠を越えるが、この峠の東側に、服部谷の出口を見張るかのように小山が東に突き出ている。これが新山城だ。現在、頂上の本丸跡には天満神社が建立され、周辺に僅かに曲輪の痕跡を残すのみだ。城主は鋤?原縫殿介と伝わり、西北1キロに存在する椋山城の出城と考えられている。
 鋤?原氏は、初代備後守護土肥実平の後裔と伝えられている旧族で、鎌倉時代以来、この地に勢力を培ってきた。土肥実平は神奈川県湯河原一帯を本拠とした生粋の関東武士で、源平の合戦で侍大将としてこの地に来て、幕府の創設と共に備後守護となった。実平が守護として築いたのが、このコースの終点「泉山城」跡だ。
 実平の子孫はその後備後守護職を没収され、替りに安芸沼田庄地頭職を拝領して安芸豊田郡本郷に本拠を移した、これが後に戦国大名として名を馳せた小早川氏である。鋤?原氏は、実平が一時支配した大田庄鋤?原を名字の地として備後に土着した、土肥氏の庶子家だ。土肥氏の一族としては他に駅家町山守の光成氏がいる。
鋤?原氏で最も名高いのは、椋山城を築いた伊賀守重信だ。重信の叔母が元弘の変で後醍醐天皇方として挙兵した桜山四郎入道に嫁いでいたことから、南朝方として活躍し、沼隈町山南の石浦城主となり、更に鞆大河島城の守将となって、北朝方の軍勢と戦い壮烈な最後を遂げた。現在、鞆の円福寺の門前に数基の五輪塔が残り、福山市の史跡に指定されている。この時重信と共に討死した鋤?原一族の墓石と伝わる。
 重信の後は重久が継ぎ、以後子孫はこの地の小領主として戦国時代を迎えた。戦国期の当主鋤?原越中守通兼は、泉山城主宮常陸介信清の家老として服部谷の南部を支配したが、宮氏滅亡後は毛利氏の配下となり関が原を迎えた。一族は離散し、各地に土着して現在に至っている。
 椋山城はこの鋤?原氏が本拠とした山城だ。登り口は服部八幡神社の手前にあり、古墳ロード整備事業で山頂本丸まで案内板が整備され、誰でも気軽に訪ねることが出来る。本丸から東南に向かって曲輪が連続して築かれ、2段目の曲輪には今も水を湛えている円形石組井戸が残っている。乱世の風雲を肌で感じるには格好の山城跡である。是非訪ねて欲しい。