草戸千軒町遺跡の西側にそびえる中山城跡、右の橋は芦田川に架かる草戸大橋

日本のポンペイ【草戸千軒町遺跡】の詰めの城「草戸中山城跡」
 草戸大橋の西詰に、高さ50?ほどの小山がある。明王院裏山から南に伸びた尾根の突端で、「鳥越」という切り通しによって分断され、独立丘となっている。これが草戸中山城跡だ。麓から徒歩10分、登山口は、切り通しの南にあり、市内では気軽に散策できる山城跡のひとつだ。
 城主は渡辺氏と伝わっている。最近写本が発見された「渡邊先祖覚書」によると、渡辺氏はもともと越前(福井県)の武士であったが、渡辺高(たかし)の代に草戸に来た。それも正式に地頭や守護としてではない。逃亡者として来たのだ。
 高は幼少で父を亡くした。渡辺家の家督は叔父が代行した。この叔父は、高が成長してくると、高を亡き者にして、渡辺家を乗っ取ろうとした。高は叔父を討ち、国を捨てた。京都の悲田院に高の親類「かしよき」がいた。高は「かしよき」を頼り、「かしよき」が悲田院領長和庄の「庄主(代官)」として草戸に下向した時、連れられて備後草戸にやってきた。応永年間(一三九四〜一四二八)のことという。成長して立派な青年武士となった高は、「かしよき」の尽力で、長和寺家分五〇貫の代官となり、守護所に出仕して、当時の備後守護代犬橋満泰の被官となった。
 高が草戸に流れてきた頃は、草戸千軒の全盛期であった。今、県立歴史博物館の常設展示場に、当時の様子を復元した一角があるが、高もこうした環境の中で成人したはずだ。
 初代高、二代兼、三代家と順調に勢力を拡大していった渡辺氏も三代家の代に滅亡の危機を迎えた。家が主君と仰いだ備後守護山名是豊は応仁の乱で敗北し、家も草戸から逃走した。
 だが、三代の歳月は渡辺氏にとって無駄ではなかった。高の赦免運動をしてくれた親類もいて、許されて草戸に帰ってきた。文明九年(一四七七)のことだ。
 かろうじて草戸の「土居」を安堵された渡辺氏は、高の子越中守兼の代に飛躍の時を迎えた。兼は戦乱を巧みに乗り切り、やがて沼隈郡山田(熊野町)に進出して本拠を移した。兼が新たに築いた城が以前紹介した「一乗山城」である。
 草戸中山城跡は、ほんの小さな山城跡である。山頂の本丸は百坪ほどの面積しかない。だが、「渡辺先祖覚書」という稀有な史料が語る城主渡辺氏の歴史はまことにドラマティックである。各地に残る山城跡には、それぞれ秘められた歴史がある。私は、それら打ち捨てられ、忘れられた山城の歴史を、この連載で少しでも解き明かしたいと思っている。