発掘された泉山城跡の曲輪跡

出土した遺物

後宮氏の拠点の一つ、泉山(せんやま)城跡福山市駅家町服部)
 服部の谷を北に進むと、やがて谷筋が二股に分かれ、蛇円山の黒々とした山塊が前に立ちふさがる。この蛇円山山塊の南端に築かれたのが、福山古墳ロード服部Cコースの終点「泉山城跡」だ。
 「泉山」を「いずみやま」と読む人も多いが、間違いである。「戦山」「勢山」と表記される場合もあって、元禄13年の「備後国品治郡雨木村検地水帳」には「仙山」とある。「せんやまじょう」と読むべきである。
 現在、山頂にテレビ塔や給水施設が設けられ、西側に自動車道がついて上りやすい。以前は、南側の「土居荒神」あたりから九十九折れの山道があり、息を弾ませながら登ったものだ。
 山頂の本丸は2段に別れ、南北70?に達する大きな曲輪だ。上段に給水施設、下段にテレビ塔、携帯電話の中継アンテナが林立している。本来は、本丸から北の尾根続きに空堀があったはずだが、車道の建設で破壊されている。

 私が初めてこの城に登ったのは、高校生の頃で、本丸から西と東に突き出た尾根上に曲輪が築かれているのを確認した。更にその後調査を重ねると、曲輪の数は増え、山頂から山麓部までを城域とした大規模な山城であることがわかった。給水施設や鉄塔の建設の前に、市教委による発掘調査も実施され、少なくとも3期に渡って修築されたことが確認された。
 山頂本丸に立つと、この城が、築城以来長く利用されてきた理由が良くわかる。南北に細長い服部谷は一望の下で、この城の城主となったものが、この谷を支配したはずだ。
 城の歴史は古い。以前にも触れたことがあるが、鎌倉幕府の初代備後守護土肥実平の築城と伝えている。南麓に「土居」という地名が残っていることから、まんざらでもない伝承だ。
 土肥氏の後は、その支族の桑原氏が在城し、南北朝時代以降は、備後きっての大豪族宮氏の一族がこの地の支配者となり、この城にも入ってきた。将軍足利義持の御教書に「宮次郎右衛門尉氏兼の所領備後国山野郷、服部郷、石成庄などを兄の宮満信が乱暴している、速やかに兄の狼藉を止めさせ、弟に所領を安堵させよ」と近隣の御家人に命令が出ている(山内首藤家文書)。戦国時代初頭、泉山城主となった宮信光は城下一寺を建立して「信光寺」と名付けた。寺は今も禅宗の寺院として法灯を伝えている。
 最後の城主は宮常陸介信清(元清ともいう)と伝わっている。年代は不詳(天文年間、或いは天文3年ともいう)だが、この城をめぐって激戦があり、宮氏は敗北して、城は焼き払われたという。