古墳時代の大古墳の上に築かれた小井城跡本丸。切岸から埴輪が出土する。

古墳を利用した中世城館「小井城跡」
 去る3月23日、私が会長を務めている備陽史探訪の会が、福山市と協働で整備を進めていた「福山古墳ロード」がめでたく完成した。服部大池の土手を基点に、近田駅までのAコース、加茂町の江木神社までのBコース、北に行って蛇園山の麓にある泉山城跡までがCコースと、好みと健脚度に応じてコースが選べるようになっている。
 「古墳ロード」と銘打っているが、コース中の山城、神社仏閣なども取り入れている。今回、紹介する「小井城」跡もその一つだ。
 最初に断っておきたいのは、その城名である。本稿では「小井」と表記したが、古墳ロードの説明板、マップなどでは「小糸城」となっている。江戸時代の「備後古城記」「西備名区」では、「小井城」あるいは「小井の城」、草土千軒遺跡からも「小井より正税分」という木簡が出土していることから、本来「小井」が正しいと思うのだが、広島県の城館遺跡調査報告書が「小糸」と表記し、市教委も其れに従ったため、今回の説明板は「小糸城」となった。
 さて、城は北部工業団地のある丘陵から西南に伸びた低い尾根筋を加工して城郭としたもので、本格的な山城というより、「土居形式」の居館と言ったほうがよい。それも古墳を利用したところに大きな特徴がある。城跡に古墳があったことが判明したのは、ほんの20年ほど前のことだ。城跡の南側の胸壁工事の際に「円筒埴輪」列が発見され、城の本丸・二の丸部分が古墳であることがわかった。当時の報告を読むと、円筒埴輪は東西に整然と並んで埋められており、更に城跡の北側にも埴輪列が存在することが確認された。南と北の埴輪列は50?くらい離れており、古墳は相当大規模なものであったことが推定された。奈良や大阪では、巨大前方後円墳が城として利用された例があるが、県内では珍しい。
 「備後古城記」「西備名区」とも、城主として宮兵部大輔勝信を挙げ、天文年間(1532〜1555)、毛利勢の攻撃を受け、北方800?のところにある掛迫城と同時に落城したという。以前述べたように、駅家町法成寺には室町時代中期以降、宮氏の一族「宮法成寺」氏が本拠を置いており、小井城の宮氏もその一族であったことは間違いない。さらに掛迫、小井両城の位置関係、および草戸から出土した木簡に「小井よりの正税分」とあることから推定すると、宮法成寺氏の本拠は小井城で、「要害」として築いたのが掛迫城であったと考えられる。
 宮勝信は、実在の人物だ。天文一〇年(1541)の宮実信感状(備中平川文書)に「この度、椋山に於いて、法成寺兵部大夫雅意仕り候」とあり、郷土史書が伝えるように天文年間に活躍した人物であったことがわかる。
 現在、小井城は住宅地の侵食によって落城寸前の様相を呈している。南から北側はほとんど削平され、城塞としての面影を残しているのは、西南端の本丸付近だけである。古墳としての価値も高く、今後周辺で開発などが行われる場合は、事前に十分な調査を実施してもらいたいものだ。