槇木嶋昭光の居城「神島城跡」福山市神島町 西より写す

最後の将軍足利義昭の側近、真木島昭光の居館跡「神島城跡」
 福山駅前から国道2号線を広島方面に行き、神島橋を渡る辺りで右手を見ると、低い小さな丘が見える。神島町の古城山だ。神島の町名はこの丘に由来し、読んで字の如く、かつては芦田川の河口に浮かぶ小島であった。弥生時代の頃までは、海は深く現在の津之郷小学校の辺りまで入り込み、河口は現在の山手・本庄を結ぶ線にあった。当時は、島の周りは荒磯であったのであろう、「万葉集」にこの地で詠まれた歌が残っている。
「月よみの光に清み神島の磯間の浦ゆ船出すわれは」
 中世に入ると、海はしだいに沖に遠ざかり、芦田川はこの小山の北に大きな淵をつくって東に流れを変え、地吹の荒神さん辺りで海に入っていた。この河口の右岸に栄えたのが「草戸千軒」だ。
 地形的に見ると、神島の丘は草戸千軒やその後背にひろがる「長和庄」の北端に位置し、その関門として重要な位置を占めていた。したがって、南北朝時代以降、乱世になると、地域の拠点として城郭が構えられるようになるのも当然であった。
 最初に記録に現れるのは、久保氏で、「備後古城記」に久保兵部の名がある。また、この城は国道を挟んで南の、福山市の旧浄水場のある丘の頂上に築かれていた佐波城と立地的に強い関連を持っていた。佐波城の城主と伝わる、佐波氏、名倉氏もこの城を使用したと考えられる。
 佐波氏は、古代豪族の出身と伝える旧族で、越中守可美は元弘の変で桜山四郎入道に味方して南朝方として活躍した。名倉氏は或いは可美の後裔と考えられる在地武士で、応仁の乱では名倉越中守・九郎右衛門尉父子が草戸の渡辺氏と共に山名是豊に従って没落したことが記録に残っている(渡辺先祖覚書)。
 神島城主としてもっとも有名なのは槇木島玄蕃頭昭光である。
 昭光はもともと京都近郊槇木島の在地武士であったが、早くから室町幕府に仕え、最後の将軍足利義昭の近臣として活躍した人物である。
 十五代将軍義昭は天正四年(一五七六)二月、毛利氏を頼って鞆に来たが、後に津之郷に移り、天正一五年(一五八七)に帰京するまで同所に滞在した。義昭の御所の跡と伝わるのが津之郷の「御殿山」で、今も南面した屋敷の跡が残っている。
 義昭の備後滞在中、毛利氏は約千三百貫の「御料所」を進上し、義昭一行の生活費とした。その範囲は、瀬戸町の長和から津之郷町、神島町一帯で、瀬戸町の福井八幡神社は義昭の再興と伝えている。
 昭光の神島古城山在城は、この義昭「御料所」の範囲と義昭の居住した「御殿山」との位置関係からして、義昭の「取次」としてこの地に居住したと考えて誤りなかろう。神島は山陽道に近く、城下には「神島市」の繁栄があり、海の玄関口である鞆にも近い。事実、豊臣勝俊や細川幽斎は、鞆から昭光の取次で「公儀御座所(義昭の居館)へ参上し、昭光の館で「蹴鞠」を楽しんだことが知られている(九州道の記など)。
 今も神島の古城山は、住宅地に囲まれながらも、かつての面影を残している。中腹には神島の八幡神社が鎮座し、その背後には昭光の館があったと推定される広い平坦地と、その更に上には城郭の曲輪と思われる削平地がある。乱世には八幡神社一帯も城郭として利用されたことだろう。