宮信定の居城と伝わる甲谷城跡

謎の武将宮長門民部左衛門尉藤原信定と甲谷城跡
 福山市内で私が一番好きな場所は、熊野町光林寺池だ。水呑大橋を渡って、沼隈への県道を約10分、熊野の「六本堂」で左折、オンリーワンの先の大きな常夜塔で更に左折、約五百メートル走ると池の土手に出る。季節は冬が最高だ。池の水面は神秘的で憂世を忘れさせてくれる。一昨年、映画のロケ地となったが、左もありなんだ。
 さて、この池の土手から北を眺めると、右の熊が峰から稜線が左の谷に向かって延び、土手の北詰辺りで急に隆起し、なだらかなスロープで谷に落ち込んでいる。この隆起したピークが、今回のテーマ「甲谷城」跡である。「甲谷」は城山の麓の地名で、別に「中山田城」とも「夕目城」とも呼ぶ。
 光林池の土手から城に行く道はない。城跡を目指すには、池に向かう道を引き返し、公民館の辺りから、1本北側の道に入る。この道の終点が城への登山口となっている。地元の文化連盟の手によって案内の石柱が立っているのでわかりやすいはずだ。
 城は東から西に伸びた尾根の隆起部を3条の堀切で断ち切り、削平して曲輪を3段築いただけの簡単な構造だが、見所はある。本丸から堀切にかけて幾重にも削り込まれた「竪堀」と、本丸の東側に築かれた「土塁」だ。竪堀は、堀切が尾根に対して直角に掘り込まれた空堀であるのに対して、斜面を垂直に掘りこんだ空堀で、戦国時代の山城に特徴的に見られる遺構である。城の弱点に集中的に築かれ、敵兵の移動を妨害する。また、この城の土塁は高さ2メートル以上あり、一部が櫓台となっている。おそらくこの部分に、後世の天守閣に相当する櫓が建っていたのであろう。
 城主は戦国時代の熊野(山田)の領主、渡辺氏とする書物が多いが異説もある。備後三大郷土史書の中で最も早く著された「備陽六郡志」は、下山田村十一面観音のところに、「観音は運慶の作なり。後ろの山際に宮近門民部左衛門信元(信定)の石塔有。信元は渡辺越中守にうたれたる事、常国寺の所に記す。然れども居城しれす、当村の内、高谷(甲谷)といふ所に城地あり、是すなわち、信元の城ならんかといふものあり、委しく知りたる人なし。」と記し、宮信元の居城ではないか、と推定している。
 ここで信元とあるのは、常国寺の真の開基、宮長門民部左衛門尉信定のことで、石塔は現在も観音堂の背後に残っている。
 六郡志よりも古い、「水野記」には更に興味深い記述がある。「光林寺」は「当国領主山名氏」の菩提寺で、境内に山名氏の石塔があると記し、また、山田の八幡社は「宮氏」が造営して社領を寄進したとあるのだ。
 山名氏の菩提寺光林寺」こそ「光林池」の名の元となった寺で、今もその跡地は池の奥まった所に残り、池の水が干上がった時には山名氏の石塔も見えると言われている。
 位置関係からして、甲谷城は、この山名氏、或いは宮氏によって築城されたと考えていい。城の南麓には熊野から水呑・田尻方面へ越える古道があり(戦後間もなく迄熊野の人はこの道を通って田尻や鞆に魚を買いに出かけたという)、城はこの道を押さえるために築かれたに違いない。
熊野盆地(山田)を支配した山名氏や宮氏は乱世の中で滅び、草戸から渡辺氏がこの地に入ってきた。戦国時代の永正年間(一五〇四〜一五二一)のことだ。以後この城は渡辺氏のものとなり、慶長5年(一六〇〇)の「関が原」を迎え、廃城となった。これがこの古城の歴史だ。