新庄太郎の子孫が築いたという赤坂町の川上城跡

備後赤坂、川上城と村上氏
 各地に「長者」のつく地名が残っている。中でも、福山市赤坂町の「長者が原」は有名だ。国道から「ふれ愛ランド」の標識に従って北に入り、鈴池の傍らを通って峠に向かうと、忽然と小盆地が開けてくる。ここが長者が原だ。今でも長者が捨てたスクモが積もって小山になったという「スクモ塚」などのいわくありげな場所が残っている。
 伝説によると、この赤坂の長者原にいたのは「新庄太郎実秀」という長者で、娘の「明子姫」が村上天皇の妃となり、天皇の勅願で建てられたのが鞆の福禅寺(対潮楼)だという。そして、この伝説は、赤坂町に残る「川上城」の築城と結びつき、城主村上氏の始祖伝承ともなっている。
 すなわち、「西備名区」によると、赤坂村川上城は、新庄太郎実秀の末葉、村上加賀守秀成が寛和年中(九八五〜九八七)に築き、十一世の孫、河内守則定まで居城したと伝えている。
 「寛和」といえば平安時代中期の年号で、到底山城が築かれるような時代ではない。すると、この伝承は全くのでたらめかと言えば、そうでもない。実は、「新庄太郎実秀」は実在の人物なのだ。但し、伝説にあるような平安時代村上天皇の頃の人物ではない。
 尾道の西国寺に、室町時代、寺を再興した時の「寄付帳」が残っていて、この中に「当国新庄長者」として実秀の名と、立派な花押が残っている。銭五十貫を寄進しているから相当な実力者である。
 つまり、時代を平安から室町に下ろせば、この伝説には相当な信憑性があるというわけだ。川上城の城主と伝わる「村上氏」に関しても、史料は残っている。村上氏といえば、能島・来島・因島の海賊村上氏を連想するが、備後関係の史料をよく見ると、海賊村上氏とは考えられない「村上氏」が存在する。備後守護山名氏の家臣として活動した村上氏だ。例えば、守護山名政豊の擁立に加担した「村上」(山内首藤家文書など)、高須杉原氏のために奔走した「村上治部太夫」(閥閲録遺漏)など海賊衆とは考えられない人物の活躍が知られる。西国寺寄付帳の「新庄長者」実秀は守護山名氏と密接な関係を持った人物と見られるから(西国寺の再興は山名氏が中心となって行った)、これらの村上氏は川上城の村上氏で、或いは「当国新庄長者」実秀自身の苗字も村上氏であった可能性がある。
 伝説を秘めた川上城跡は、今も赤坂町に残っている。赤坂八幡神社から国道を挟んで南正面に聳えている比高百四十メートルほどの山がそれだ。南から北に伸びた尾根を堀切で独立させ、東北に曲輪を連続して築いた簡単な構造で、室町時代の山城の特徴をよく残している。北の山麓には城主の平時の館である「土居」の跡も残っている。
 城跡に登るには、早戸からの山道が登りやすい。ただし、相当荒れているので「藪漕ぎ」を覚悟しなければならない。城山の西南に、戦後まで稼業していた「勝負銅山」跡が残っている。新庄長者は銅山で財を成したという説もあるから、城とこの銅山の位置関係は極めて示唆的である。