南の津之郷町坂部から見た串山城跡

銀山城の出城、串山城
津之郷町に田辺寺という真言宗の寺院がある。中国バス「谷尻バス停」から歩いて五分、以前はのどかな田園風景が広がっていたが、今は住宅が建て込んで来た。
 田辺寺は、奈良時代に創建された「和光寺」の後身と言われる。奈良平安と栄えた寺は中世に入ると衰退し、僅かなお堂を残すのみとなっていた。この和光寺を再興し、現在まで続く基礎を固めたのが津之郷串山城主と伝わる田辺越前守光吉だ。
 田辺氏は備中の出身で笠岡一帯に大きな勢力を持った陶山氏の一族だと伝わる。出雲守高倫が備中美袋に移り、光吉の代に備後沼隈郡津之郷村に移り、串山城の城主となった。そして、和光寺を再興して菩提寺となし、寺号も自身の苗字にちなみ「田辺寺」と改めたと言う。「西備名区」に田辺寺の創建を永禄年間(一五五八〜一五七〇)としているから、戦国時代後期のことだ。
 ところで、江戸時代の「鉢植え大名」でもあるまいし、当時の豪族がそう簡単に居所を変えることはない。別に理由があるはずだ。その「わけ」は串山城跡に登ることで簡単に解決する。
 串山城跡は、山手・津之郷の北を限る高増山系から南に伸びた尾根が丁度平野に落ち込む直前のピークに築かれている。東から望むとこのピークは二つの峰に分かれ(城跡は南のピークにある)、その名の通り、「串刺し」にされたように見える。城名の由来はこんなところにあるのだろう。
 山頂には二段の平坦地が残り、ここに現在石鎚神社が建立されている。山自体が花崗岩質のため風化が激しく、遺構の残り具合は悪いが、それでも山頂の本丸以外にも二、三の曲輪跡と北側の尾根続きを断ち切った「堀切」の跡を認めることが出来る。登山道は西南から石鎚神社への山道があり、登りやすい山城跡だ。
 このように串山城は、規模も小さく、遺構も簡単で、到底本格的な山城とは言いがたい。そこで注目したいのが立地だ。山手・津之郷の平野は串山城下で急に狭まり、赤坂水越の峠となる。この芦田川右岸の穀倉平野は、かつて山手に聳える銀山城主の支配下にあった。串山城本丸からも東北を望むと、銀山城の頂を平らにした山容がくっきりと見える。立地と言い、規模と言い、串山城はこの銀山城の支城として築かれた山城であることは間違いない。
 銀山城主杉原氏は、後に神辺城主として備南に号令する覇者となった。一帯の国人土豪はほとんど杉原氏の家臣団に編入された。田辺氏もその一人であった。神辺城主となった杉原盛重は、家臣団の充実に熱心であった。田辺氏は備中美袋から来たという伝承があるのを見ると、在地生え抜きの豪族と言うより、盛重によって召しだされた新付の家臣で、その能力によって支城主に抜擢された者であったと考えられる。