山内首藤氏が久代宮氏に備えて築城した篠津原雲井城跡遠望

考証「篠津原合戦
 三上郡高郷(庄原市高町)周辺で宮氏の姿が初めて『山内首藤家文書』に現れるのは、年不詳(明応末年と推定)
九月五日付の塩冶氏盛書状に於いてである。この書状は、氏盛が山内豊成に対して、豊成の要求した「宮高方知行
分高郷」の安堵を守護山名俊豊に取りなすことを報じた文書で、文中の「宮高」は、この地に本拠を置いた宮氏の
一門と考えられる。つまり、一五世紀の段階では雲井城の存在する「高郷」は宮氏の支配下にあった。
 次に同文書中に久代宮氏が現れるのは、下って天文年間(一五三二〜一五五四)の後半のことだ。
この時期、山内首藤氏の当主は豊成の曽孫に当たる隆通であるが、同じく守護山名氏の重臣塩冶鋼が
隆通に苑てて認めた条書(二一三号)に
一、宮跡職事、是又被加御袖判候間、可被得御意候
一、久代当知行分事、被成御判候、珍重候
 とある。
 文意は、備後守護山名氏が、「宮跡職」と「久代当知行分」の知行を山内首藤氏に認めたもので、
これがすなわち、常に問題となる天文二二年(一五五三)一二月三日付山内隆通条書併毛利元就
連署返書(山内首藤家文書二一六号)の前提となった文書である。
 「宮跡職」とは、天文一〇年(一五四一)に断絶した備後宮氏の惣領「宮下野守家」の遺領のことで、
同家の遺跡が久代宮氏と推定される宮彦次郎によって「切取」られたことは「大館常輿日記」
天文一〇年八月四日の条に明証がある。次の「久代当知行分」については、山内隆通条書の
「宮家併東分小奴可、其他久代当時知行分」の「東分小奴可、其他久代当時知行分」に当たると考えられ、
勃興期にあった久代宮氏が武力によって押領した他氏の所領のことだ。
 つまり、この文書は、山内首藤氏が久代宮氏に対して、その所領を要求しうる権利を上級支配者
である守護山名氏に認めさせた、極めて重要な文書なのである(天文二二年の山内隆通条書に対する
毛利元就の返書はこの権利の追認である)。
 これら一連の文書の背景にあったのは言うまでもなく、久代宮氏と山内首藤氏の対立抗争である。
久代宮氏は「久代」を称したように旧奴可郡の東南部に位置する庄原市東城町久代に興った国人である。
同氏の戦国期の行動を見ると、居城を西城の大冨山に移しているように、束よりも常に西方庄原方面
に関心を持っていた。この理由は判然としないが、その大きな要因は庄原盆地に割拠した山内首藤氏
の存在にあったことは間違いない。
 久代宮・山内の両氏は共に中国山地の砂鉄を経済基盤としていた。砂鉄は河川の水運によって他地域
に運ばれる。居城を西城に置いた久代宮氏は城下の西城川の水運に関心を持っていたに違いない。
しかし、その下流には山内首藤氏が盤据していた。久代宮氏が西城川の水運を支配下に収めるためには
山内首藤氏の勢力を押さえる必要があった。こうしたことが西城盆地の西の出口である高郷に両氏が
執着した原因ではなかろうか。
雲井城跡に残る石垣

 さて、久代宮・山内両氏の抗争は天文二二年の暮、遂に発火点を迎えた。備後北部で戦われた
尼子・毛利の合戟が、尼子氏の敗退によって一段落した時期である。両氏は周辺から尼子の勢力が後退した
時期を見計らって実力行使に及んだ。
 同年一二月二九日付の毛利隆元の自筆書状は言う、
「来春に於いては、やがて山内・久代は取り相いを始め侯事たるへく候」(「毛利家文書」六六三号)と。
ここで面白いのは、隆元はこの戦いで毛利氏は久代宮氏を援助するべきだと父元就に述べていることだ。
毛利氏は隆通条書の返事で、山内首藤氏に対して久代宮氏の「当知行分」の領有を認めた筈である。
にもかかわらず、この文書で隆元は「久代へは一廉力を副」えると言っている。これは一体どういうことか。
考えられるのは、毛利氏は 「二枚舌」を使っていたのではないか、ということだ。
おそらく毛利氏は久代宮氏に対しても何らかの保証を与えていたのであろう。
一方の当事者(ここでは山内首藤氏)の文書だけで物事を判断すると大変な過ちを犯すことになるいい例である。
 この時期の両氏の抗争を示す史料は、世羅郡の国人湯浅里宗に宛てた年欠十月四日付山内隆通書状
(「萩藩閥閲録」一〇四)である。この書状によると、山内・久代宮の両氏は神石高原町北部で合戦を始めたようで、
山内氏には同町高光の高光氏が味方し、久代宮氏の側には同町永野の黒岩城主宮氏が味方し、
互いに勝敗があった。隆通が未だ「少輔四郎」と称していた時期のものであるから、
この時期のものとしてよい。
 永禄に入っても両氏の抗争は続いた。天正八年(一五八〇)九月六日付の宍戸隆家同元孝連署起請文によると、
「小笠原陣中に於いて久代、(山内隆通が毛利氏に対して)現形致すべしと申し、御領(山内氏領)高の儀、
彼方(久代宮氏)持ち出しに仕るべし」と、毛利氏に注進に及んだと言う(「山内首藤家文書」二八四号)。
 「小笠原陣中」とあるから、毛利氏が尼子方の石見小笠原氏を攻撃中の永禄元年のことである。
この時は山内氏に親しい宍戸氏が隆通の無実を申し張り、事なきを得たと言うが(同上)、
時期と言い、御領「高」が焦点になっていることと言い、この事件が永禄二年(一五五九)の
「篠津原合戦」の直接の導火線になったことは間違いない。
 すなわち、永禄二年六月の「篠津原合戦」は、天文年間の久代宮氏の西方への進出を背景として、
天文二十二年末以来戦われた久代宮氏と山内首藤氏の対立抗争の、最後の武力対決だったのだ。