典型的な館城である丸山城跡

謎の武将備後桑田氏と丸山城跡 
 戦国時代の末期から近代にかけて、山南(福山市沼隈町)の桑田一族は地域に大きな影響力を持ち、
多彩な人物を輩出した。横尾の「山南屋」と言えば、戦前「桑田銀行」を持ち、
讃岐電鉄の大株主として知られていたが、この山南屋桑田氏もまた、この地の出身だ。

 近世から近代にかけて大きな力を持っていただけに、桑田家の由緒はきらびやかなものだ。
各書に掲載された桑田氏の系図によると、桑田氏は豊後の戦国大名大友氏の一族で、
丹波国桑田・何鹿両郡を領したために「桑田」を苗字としたという。
その後、桑田将能の代に、丹波戦国大名波多野氏と戦って敗れ、備後国沼隈郡に落ち延び、
森脇山城の箱田氏を討って、城名も丹波の郡名にちなんで「何鹿城」と改め、土地の豪族となった。
天文年間(十六世紀中葉)のことと言う。

 しかし、その実像は不明の点が多い。桑田氏がこの山南に来たと言う天文年間(1532〜55)、
山南一帯の領主は桑田氏ではなく、渋川氏であったことが史料上明らかなのだ。
しかも、桑田氏が渋川氏の被官であったことも史料から確認される。
すなわち、広島県史に収録された「桑田家文書」によると、
天文一六年(1547)一一月、渋川義正は、桑田藤三に「山南之郷田中新次郎給地」を、
翌年八月には、桑田寅千代に山南郷の内「五百疋」の地をそれぞれ「給地」として与えている。

 この「桑田家文書」を見る限り、山南の領主は渋川氏であって、桑田氏ではない。
渋川義正宛行状には「反銭夫銭之事其外諸役等、先例を守り相勤むべき者也」とあって、
桑田氏は反銭や夫銭を渋川氏に納め、同氏に「奉公」する立場にあった。

 それでは、桑田氏の伝承は全くの誤りであったのかというと、そうとは言い切れない面もある。
実際、戦国末期から近世初頭にかけて、在地で大きな勢力を持っていたことは、他の記録で確認できる。
 では、渋川氏から桑田氏への権力の交代は如何に行われたのか…。
各地で見られたように、桑田氏は「下克上」によって地域の支配者になったのだろうか。

 実は、この交代劇は、「渋川氏の断絶」という偶然の出来事が大きな契機となっていた。
渋川氏は義正の後、子の義満(陸景ともいう)が継いだが、天正元年(1573)、義満が没すると、
実子がなかったため自然に絶家となってしまった。

 「桑田家文書」に小早川隆景の書状が何点かあるのを見ると、渋川氏の所領は姻戚(義正は
小早川氏の出身)の小早川氏の領地となり、桑田氏が「代官」として実際の支配にあたったのだろう。
丸山城跡に建つ石碑

 桑田氏が居城したという「丸山城」はこのことをよく示している。
福山方面から沼隈に向かうと山南農協辺りで、右手に低い丘の上に大きな「石碑」が建っているのが目に付く、
これが丸山城跡だ。現地に行ってみると、浄土宗悟真寺門前の東に張り出した小山で、
比高20メートル余り、山上は三段に削平されて、ここが確かに中世の城館跡であることがわかる。
巨大な石碑は桑田氏の後裔が建てた城跡碑である。
丸山城跡略測図

 城跡に立つと、この城が正に在地を支配した荘園の「政所」にふさわしい規模と立地を
持っていることがわかる。中世山南を支配した領主、北条氏・渋川氏・小早川氏はこの地に代官を置いて一帯を支配した。
そして、その最後の代官こそ桑田氏であったに違いない