真宗の拠点、備後沼隈郡光照寺

森脇山城と光照寺
 福山駅前から沼隈方面に30分も車を走らせると、かつての沼隈郡沼隈町(現在は福山市沼隈町)に入る。
途中、分水嶺を二つ越える。まず水呑町洗谷から一山越えて熊野町に入る。そして、熊野の盆地から沼隈町
の山南に入るところで峠を越す。
 この沼隈半島中央部の地形は、地名によく表現されている。半島中央の盆地はかつて「山田」と呼ばれ、
北に「山北」、南に「山南」がある。私は、この「山」は彦山だと思っている。「山」は邪馬台国の「邪馬」
に通ずる古い地名だ。
 さて、この南に開けた「山南」には古くから人が住み着き、さまざまな遺跡を残した。沼南高校の東の山中
からは弥生時代の「広型銅剣」が出土し、古墳も何基か知られている。中世に入っても多くの山城が築かれ、
武士たちが興亡を繰り返した。そして、中世の沼隈で忘れてならないのは浄土真宗光照寺の存在だ。親鸞
開いた浄土真宗は関東地方で教線を広げ、鎌倉に最宝寺が建てられた。この最宝寺で活躍したのが光照寺
開いたとされる明光上人である。寺伝によると、明光は親鸞門下の6人の直弟子の一人で、師の命によって
西国に下り、備後国沼隈郡山南に光照寺を開いたとされる。しかも、明光は鎌倉幕府を開いた源頼朝の甥で、
幕府から山南郷を拝領したという伝承もある。
 寺の縁起の真偽は別として、室町から戦国にかけて、光照寺が大きな勢力を持ったのは事実である。
浄土真宗では「安芸門徒」が著名だが、安芸門徒の本山甲立(北広島市甲田町)の高林坊は光照寺の孫末寺にあたる。
全盛時には300余ケ寺の末寺を誇り、戦国時代には本山から直末同様の待遇を受けた。戦国期の法主証如上人の
日記「天文日記」に登場する中国地方の真宗寺院は、光照寺と、その末寺三次の照林坊だけである。
さて、私が気になるのは光照寺のような有力寺院は「城郭」を構えたかどうかだ。各地の有力寺院には
寺そのものが城塞化された例が多い。また、「寺内」と言って、寺と門前町が堀や土塁に囲まれて、一朝有事には
篭城出来るようになっている場合もある。大阪石山本願寺が代表だ(今の大阪城の前身である)。
 光照寺で気になるのは背後の丘の上にある「森脇山城」の存在だ。同城は光照寺背後の山頂から西に張り出した
尾根に築かれた山城跡で、背後を堀切によって劃し、前面に連続的に曲輪を築いている。
 「備後古城記」などには、箱田氏や桑田氏が在城したとあるが、光照寺はこの山城に関与しなかったのであろうか。
天文年間、光照寺神辺城主山名理興によって攻められ、一山焼亡の憂き目に遭っている。これは寺が武力を持って
いたからこそ、理興の攻撃を受けたのだろう。そうすると、背後に一旦有事のための山城を構えていたとしても良い
と思うのだが…。