今は陸地の小山となった手城島、「手城」の地名の起源はここにある

福山湾に浮かんだ海の要塞「手城島城」
「天当さん」という懐かしい言葉に引かれて、久しぶりに手城島城跡を訪ねてみた。
多治米から入江大橋を渡って右折、しばらくすると右手にコンクリートの胸壁に囲まれた小山が見えてくる。
これが通称「天当さん」と呼ばれる手城島城跡だ。
てっぺんに天神社が祀られ、参道を登ると平坦な境内地に出る。
ここがかつての本丸跡だ。
よく見ると、境内に入る手前の右下にも平坦地がある。
城があった時代の「曲輪」の跡だ。
 「西備名区」の深津郡手城村のところに、この城のことが詳しく述べられている。
 「この城地は、今は陸地につながってしまったが、昔は海中の小島で、四方が絶壁の要害堅固の地であった…」
 「茂野五郎入道盛信
  暦応年中、山田村渡辺越中守と合戦に及び、討死す、子の盛久は逃れて、伊予の河野氏に仕えた…」
 「倉田左近五郎盛久
  天文年中、山田城主渡辺越中守と些細なことで不和となり、合戦となった。
盛久は小勢であったがよく戦い、越中守の軍勢を寄せ付けなかった。
困った越中守は毛利氏に加勢を頼み、双方軍船を繰り出して戦った。
渡辺勢は倉田勢を城中に追い込んだが、城の守りは堅く、遂に攻めあぐねてしまった。
この様子を見た神辺城主山名氏政は両者に和議を勧告し、倉田、渡辺両者は和睦し鉾を収めた…」
 茂野盛信・倉田盛久が渡辺越中守に攻められた、と言うのが話の粗筋だが、南北朝時代の「暦応年中(1338〜42)というのはおかしい。
なぜならば、この時代渡辺氏は山田(現熊野町)はおろか備後にも来ていない(初代高が草戸に来たのは15世紀初頭)からだ。
 しかし、倉田左近五郎が天文年中(1532〜55)に渡辺越中守に攻められた、という伝承は話の核心に真実が秘められている可能性がある。
 「手城島城」は、「五箇手島」として戦国期の文書に散見する。
「五箇」は「坪生五箇」或いは「五箇庄」として見え、引野・野々濱・大門・津之下一帯の地で、その地先に「手島」と呼ばれる小島があった。手城島城のことだ。
コンクリートの胸壁に囲まれた城跡

 史実に登場する手城島は、郷土史書の伝えと大分違う。
 伝承では、神辺城主山名氏が合戦の仲裁をしたことになっているが、この城が歴史の表舞台に登場するのは、周防の大名大内氏神辺城主山名理興を攻撃した、所謂「神辺合戦」の際であった。
 天文十一年(1542)、山名理興の裏切りにより、出雲で尼子氏に大敗した大内義隆は、失地回復の最初の目標を神辺城の山名理興に置き、翌々天文十三年、兵を備後南部に進めた。
ところが神辺城の守りは堅く、戦いは長期戦となった。
そこで大内氏は本陣を鞆に置き、小早川氏を遣わして、「五箇庄」に前進基地を築かせた。
この前進基地こそ、当時「手島」と呼ばれた手城島城であった。
後に小早川隆景が山田の渡辺氏に与えた書状によると、この城の「普請」には渡辺氏も協力し、城が完成した後には、「手城島」の「一の丸」を渡辺氏に預けたと言う(渡辺三郎左衛門家譜録)。
 史料の上では、倉田氏との合戦は確認できないが、理興が手城島を放置しておいたとは考えられず、守兵を置いていたであろう。
とすると、そこで「西備名区」が述べるような合戦があったのかも知れない。
手城島を確保した大内勢は天文16年4月、坪生に進撃して、理興の兵を「五箇竜王山」で破り、神辺城を目指して進撃していく…