府中市街に聳える亀ヶ嶽

常城の話 
中世の山城の連載をしながら古代の「茨城」に話がそれてしまった。
逸れたついでに茨城と共に史書に現れる「常城」の話をしよう。
繰り返しになるが、茨城、常城が登場するのは、『続日本紀』の次の一箇所のみだ。
元正天皇紀養老3年(七一九)一二月戊戌、「備後国安那郡の茨城、芦田郡の常城を停む…」
このわずか十四文字が備後の茨城、常城に関する記録の全てと言って良い。
しかも、この短文の「停」一文字の解釈をめぐっても論争がある。
ある論者は、両城の「使用」が停止された、すなわち「廃城」になったのだと言い、まだ別の論者は、否そうではない、築城が「中止」になったのだという。
「停」=「中止」説は、それなりに説得力を持っている。
茨城にしろ、常城にしろ明確な遺跡が見つかっていないのがその証拠だと言う。
完成せずに途中で工事中止になったのだから、遺構があまり残っていないのは当たり前だと言うわけだ。
だが、はたしてそうだろうか。養老3年、西暦で言うと七一九年という時点で考えてみると、当時の政府が備後の南部に2箇所も「城(き)」を造る必然性がない。


古代日本の「朝鮮式山城」は、日本が朝鮮半島百済と結んで、唐・新羅の連合軍と対決したことから、西日本の各地に築かれたものだ。
「朝鮮式」とあるのも、百済の亡命貴族が築城の監督にあたったため、半島各地に残る山城と同じ形式の山城が造られたわけだ。
大陸との緊張関係のピークは六六三年の「白村江の戦い」の直後のことだ。
この合戦で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した日本・百済の連合軍は、命からがら日本に逃げ帰った。
もちろん、百済は最終的に滅亡した。
「さあ大変だ、唐・新羅の連合軍が攻めて来る」天智天皇を中心とした当時の朝廷は都を近江の大津京に移すと共に、九州北部から大阪湾岸に至る各地に山城を築いて防備を固めようとした。
これが現在西日本各地に残っている「朝鮮式山城」の由来だ。


茨城、常城も立地から考えると、この時築かれた朝鮮式山城と考えた方が合理的だ。
備後南部は、瀬戸内海の中央に位置し、対岸の讃岐屋島城、城山城と相対して防備線を形成している。
しかも、両城の背後には吉備や出雲の穀倉地帯が控えている。
築城地としては絶好の位置を占めている。両城がこの時期に築城されたことはほぼ間違いない。
「停」は、使用を「停止」したことを示すと見て良いだろう。


では、なぜ明確な遺構が残っていないのだろうか…。
茨城と違って、場所がほぼ確定している「常城」を取り上げて、このことを考えてみよう。
常城は、府中市街地の背後に聳える「亀が岳」山塊にあったことは地名や、僅かに残った痕跡から間違いない。
亀が岳は、観光地「七つ池」として知られている山で、山頂近くに溜池があり、池の周囲を取り囲む稜線が「常城」の城壁だと考えられている。
実際に歩いてみると、「なるほど、これは城壁の跡では…」と思えるような場所が稜線上の各所に残っている。
人工的に崖を造ったような所や、石を積み上げたように見える場所など、或いは「土塁」ではないかと思えるようなところもある。
しかし、これらの「遺構」が「常城」のものと断定できないのは理由がある。


青目寺の広島県重要文化財「石造層塔」

実は、この同じ場所に平安時代、「青目寺」という天台宗の大伽藍が建てられ、その遺跡の可能性もあるからだ。
これは蔵王山の山頂近くにあったと言う医王寺の旧跡とよく似ている。
全盛期の青目寺は僧兵を擁し、南北朝時代別当弁坊は南朝方の武将として各地を転戦した。
私は、茨城・常城はその後山岳仏教の聖地となり、再利用されたと考える。
明確な遺跡が見つからないのは、寺跡と混同されているためだ。