蔵王山医王寺旧跡から出土した古瓦

蔵王山城の謎
千田町から眺める蔵王山は美しい。
くっきりと平らにした頂から稜線が富士山型に伸び、松の緑がすがすがしい。
私の母の実家は千田の小土井で、小さい頃、母と一緒に訪ねるのが楽しみであった。
駅前から井笠のボンネットバスに揺られて30分、終点の「二つ川」で降りる。降り立つと正面に青々とした蔵王山が聳え、これから始まる楽しい一時にワクワクしたものだ。
母方の祖父には色んな昔話を教えてもらった。
中でも蔵王山にあったと言う「蔵王山城」については今でも祖父の言葉を鮮明に覚えている。
蔵王山にゃー城があってのう。平賀太郎左衛門言う侍が居ったんじゃ…」
「今でも登ってみい、石垣がある…」
案外、私の歴史好きはこの祖父の影響かも知れない。
少年の頃深安郡役所で吉田弘蔵郡長の給仕をしていたと言う祖父は、後に千田村の助役、村会議長も務めた地元の名望家で、色んなことを知っていた。
それはともかくとして、蔵王山城は謎の多い山城である。
祖父は石垣があると言っていたが、私はまだ見たことはない。
しかし、かつては(もしかしたら今も)確かにあったらしい。
『備陽六郡志』は記録している。
蔵王山 山上に石塁あり、城主知らず。東の尾上に光岩あり、曦にかがやきて鏡のことく光るゆえ、斯く名付ける。天狗の腰掛松といふあり」
(深津郡市村の項)
ただし、「六郡志」は千田村のところで、「古城一ヶ所、城主平賀安芸守」と記していて、この「石塁」のあったと言う城跡と、蔵王山の山頂にあったと伝わる平賀氏の「蔵王山城」が同一の城跡を指しているのかどうかは、検討の余地がある。
というのは、『備後古城記』などには、市村(現蔵王町)分の城跡として、「蔵王山下城」というのを挙げ、備中大下村(笠岡市大宣)城主高田河内守正重の家臣小川大膳亮と言う者が居城したとあるからだ。
また、山頂から南に谷を隔てて聳える「阿弥陀ケ峰」の医王寺の旧跡と伝える場所も、現地を訪ねてみると、曲輪や土塁が残り、どう見ても中世の山城跡である。
或いは、「石塁」のあったと言う城跡は、この医王寺旧跡の城跡かも知れない。
さらに、想像をたくましくすると、この「石塁」は、古代山城「茨城」の遺構の一部かもしれない。
「茨城」は、「常城」と共に、天智天皇が、唐・新羅の連合軍に備えて備後に築城したと、『続日本紀』にある山城で、場所ははっきり確認されていないが、蔵王山がその最有力候補地の一つである。
蔵王山に「茨城」があったのではないかと初めて主張したのは府中高校の故豊元国氏であった。
豊さんは、蔵王山に3箇所の古瓦出土地があるのに注目した。
一つは、先に紹介した阿弥陀ケ峰山頂の医王寺旧跡で、布目瓦が出土する。
それまでは、医王寺の旧跡だから「瓦」が見つかるのは当たり前と考えられていた。
ところが、この瓦は医王寺が創建されたと言う平安時代初頭のものではなく、奈良時代のものであった。
ならば寺の起源がさかのぼるかと言うとそうも言えない。
なぜならば、山上に伽藍を建てるのは、空海最澄が唐から天台、真言宗を請来した、平安初期以降だからだ。
とすると、この古瓦は誰が何のためにこの山上に建てた建物に葺かれていたのか、国家事業であった「茨城」の望楼・城門などに違いない、と言うわけだ。