宇治山城と宇治入道法円
旧深津郡千田村(福山市千田町)には、以前から城跡と伝えられる場所が2箇所知られていた。
一つは、別名「千田富士」と呼ばれた蔵王山の山頂にあったという蔵王山城である。
確かに蔵王山の山頂にはそれらしい痕跡がある。
山頂の平坦地の周囲に曲輪跡らしい削平地が南に数段見られる。
山頂に立つと、戦国時代、ここに城塞が構えられた理由がよくわかる。
山頂から北に、神辺黄葉山城の本丸が指呼の間に見える。実はこの城、神辺黄葉山城を攻め落とすために、敵方の大内勢が築いた「付け城」なのである。
城主は大内配下で城責めの最後の段階で、大内側の総大将となった平賀隆宗と伝わっている。
隆宗は、黄葉山の北正面に構えられた大内方の「向城」湯田要害山の城主とも伝わっている。
おそらく、この城にも平賀氏の手勢が立て籠もり、南の沿岸部から神辺に向かうルートを監視していたのであろう。
ここに城が構えられては、南からの神辺城への救援や、物資の補給は不可能となる。
蔵王山の山頂から神辺黄葉山を望むと、視界を遮るように一筋の山並みが東西に走り、左手が開いて国道182号線が南北に走っている。
この国道182号線の右(東)の尾根上に築かれていたのが宇治入道法円の居城と伝わる「宇治山城」跡だ。
残念なことに、宇治山城跡は、近年の開発工事により、北半分が削り取られ、無残な姿を曝している。
ただ、幸いなことに郷土史の大先輩である高垣敏男氏が昭和24年12月4日に実地調査された記録が残り、概要を知ることが出来る。
それによると、宇治山城は五段の曲輪と南北の帯曲輪から構成された小規模な山城だったようである。
本丸は山頂にあって6尺四方、2段目は本丸を囲んで12尺と9尺の長方形の平坦地、3段目は、その西南に設けられた腰曲輪、4段目は、西側に一段低く設けられた長方形の平坦地で、一部が東南に伸びて帯曲輪となっている。
その西に一段切り下げて設けられた五段目は、この城最大の曲輪で、東西36尺、南北12尺の平坦地。当時の記録を尊重して敢えて「尺」を用いたが、高垣氏の実測地が正しいとすれば、この城はまことに小規模な城跡といえる。
合計すると東西56尺となる。
メートルに換算すると城の東西は17メートルにしかならない。
開発で破壊された今日、この高垣氏の実測数値を信じるしかないが、東西17メートルの規模は山城としては極めて小規模なもので、到底本格的な山城とは言えない。
山麓にかつての「神辺街道」が走っているところを見ると、この街道の押さえとして築かれた城塞に相違ない。
国道を挟んで西側の山も「城山」と呼ばれる小山があり、曲輪跡らしい平坦地が残っている。これらの城塞は、神辺黄葉山城の西南の砦として築かれ、機能していたと見てまず間違いあるまい。
城主と伝わる宇治入道法円については、時代、その他詳しい伝承は伝わっていない。
神辺城主の家臣団にも「宇治」を名乗るものはいない。
地名「宇治」が先にあり、在名を取って宇治を名乗ったとも考えられるが、宇治といえば山城の「宇治」の匂いがする。
幕府の御家人にも宇治氏がいる。
千田と全く関係が無いように思えるが、実はこの「千田村」、室町時代には幕府奉公衆「大和氏」の所領であった。
山城の国人であった宇治氏が、大和氏との関係でこの地に来た、ということも十分考えられる、後考を待ちたい。