苧原中山城跡遠望

境目の城の典型、苧原中山城
府中の亀ケ岳の写真(前々回の常城の話に使用)を取ったついでに、栗柄から尾道の北部を回って福山に帰った。
今はアスファルトで舗装された新道がまっすぐ尾道に向かっているが、新道の左右に見え隠れする旧道は、古くから使われた道で、中世、国府が繁栄していた時代は国府のある府中から尾道への街道であった。


備後を騒乱の渦に巻き込んだ「応仁の乱」もこの街道沿いに東西両軍の軍勢が往来し、時に干戈を交えた。
備後の応仁の乱は、山名宗全、是豊父子の確執であったと共に、在地の豪族と守護との戦いでもあった。
現職の守護山名是豊が父に背いて東軍に味方したのに対して、在地の「国人」と呼ばれた豪族は、前守護で西軍の総大将であった宗全に味方し、是豊を備後から追放するために立ち上がった。


備後における東西両軍の戦いは、大乱勃発の翌年、応仁2年(1468)8月に世羅郡で始まった。
すなわち、庄原甲山城主山内豊成を中心とした西軍方の軍勢は、山名是豊の経済的な基盤であった大田庄に侵入し、「小世良」(世羅郡世羅町)で是豊方の軍勢と戦い、更に南下して翌年の2月には杉原氏の領内「苧原」(尾道市原田町小原)に進入して、小早川氏を中心とした東軍方の軍勢と衝突した。


この合戦は、一応東軍方の勝利に終わったが、「苧原」で合戦が行われたのには説明がいる。
山内豊成などの西軍方の最終的な目標は尾道の制圧であったろう。
尾道は「守護所」が置かれ、是豊の備後における本拠地であった。しかし、世羅郡の「小世良」から尾道に向かうには「苧原」は脇道に逸れている。今も昔も大田庄と尾道を結ぶ街道は、甲山と尾道を結ぶ国道184号線のルートであった。


では、なぜ東西両軍は「苧原」で戦ったのか…。
おそらく、記録には残っていないが、「小世良」合戦と「苧原」合戦の間に、「国府」を巡る戦いがあった為であろう。


備後国府の所在地であった府中市の元町一帯は、中世に於いても備後の政治経済の中心地として栄え、守護山名氏もその支配には力を入れていた。
永享年間(15世紀前半)、守護山名氏のお家騒動で、宗全の兄満煕は、「国府城」を奪取して父と弟に対抗した(敗北したが)。


山内豊成等は尾道の前に、国府の掌握を図ったに違いない。
そして、国府支配下に収めた後、栗柄を通って尾道に向かったのだ。
このルートは、以後度々合戦の舞台となった。
そして、府中・尾道間の要衝「苧原」を押さえるために築かれたのが、「苧原要害」中山城であった。


城は、栗柄から峠を越えて尾道市原田町に入った左手(尾道からだと右手)の山頂で、北から西南に伸びた尾根を利用して築かれている。
現在、登り道はない。南側の別所地区から稜線を目指し、上に行けば城跡に達する。
城山は、道路を挟んで西側にある「最円寺」から望むと、段々に削平して曲輪が築かれた様子がよく分る。
城主の末裔が建てたという最円寺

「苧原要害」の史料上の初見は戦国時代初頭の永正年間(1504〜21)のことだ。
この頃の備後は、応仁の乱で山名是豊追放の立役者となった山内豊成の権勢が守護山名氏を凌ぎ、豊成に対抗して尾道を押さえた木梨杉原氏が頭角を現していた。
両者の合戦は、木梨杉原氏の本拠木梨鷲尾城(尾道市木之庄町木梨)周辺で行われ、「苧原」には山内氏に味方した草戸(福山市)の渡辺氏が「要害」を築いて在城した(渡辺先祖覚書)。


結局、山内・木梨両氏の争いは、毛利興元(元就の兄)が調停に乗り出し、山田(福山市熊野町)を山内方に渡すことで決着した。
永正9年(1512)10月のことだ(小早川家文書)。
山田を獲得した山内氏はこれを渡辺氏に与えた。
渡辺氏は早速、山田に新城を築いて本拠を移した。これが備後渡辺氏の居城として有名な一乗山城である。


ちなみに、渡辺氏の草戸に於ける居城も「中山城」という。
「苧原要害」を「中山城」と命名したのは渡辺氏に違いない。