岬の突端に築かれた戸崎城跡

尾道水道を監視する海賊城、戸崎城跡 
尾道市浦崎町は、ひょんな経緯から本来沼隈郡(旧福山藩領)にもかかわらず、戦後の合併で尾道市(旧広島藩領)に編入されることを望み、現在のように陸路は福山市域を通過しなければ尾道市役所に行けない不思議な町となった。
昭和30年代、街としては尾道の方が大きく、周辺町村が合併して「松永市」が誕生した時、松永を嫌って尾道に付い為だ。
浦崎は、本来沼隈半島と地続きであった「浦崎半島(これもかつての島である)」と、江戸時代になって地続きとなった「戸崎」島の二つの地区から成り立っている。
浦崎半島と戸崎の間の水路は今でも潮が通り、付近の地名は「満越」と呼ばれ、古墳時代の「製塩遺跡」が発見されている。
戸崎の西端は、戸崎瀬戸によって向島の「歌」と向き合い、水道の幅は千メートルに満たない。
尾道が内海屈指の港町として栄えていた時代には、航路の出口を押さえる重要な場所であった。
当然、戸崎の岬の突端には、この水道を見張るために海賊城が築かれていた。
先日、この戸崎にある海賊城を確認するため、この地を訪ねてみた。
福山駅前から国道2号線を西に向かい、赤坂から「農免道路」を越えて金江町へ出、更に突き当たりの県道を左折して浦崎に向かう。
今はここを経由して常石方面へ向かう車は少ないのだろう。
尾道市」に入ると道幅は極端に狭まり、大型車の離合は難しそうだ。
しばらく走って、「唐樋」バス停辺りで右折、浦崎の半島を横切って戸崎に入る。
戸崎は福島正則の時代までは独立した村(島)で、北の松永湾に面した一帯に人家が密集する。
今回の探訪には、広島県が出した「城館調査報告書」を持参し、同書に掲載されている城跡を訪ねた。
まず、「戸島城」と言うのを訪ねた。
戸崎「島」の北面には東西に北に突き出た岬があり、その東側の岬が戸島城として地図に記載されていた。
行って見ると、岬と言うより、海岸縁にある小島で、干潮時のみ陸続きになる陸繋島だ。
丁度干潮だったので島に渡って見た。
が、海水による侵食が激しいらしく遺跡はほとんど残っていない。
立地からすると、本格的な城郭が築かれたわけではなく、見張所的な砦があったのであろう。
次に、西の岬に築かれた戸崎城跡に行って見た。
こちらも往事は陸繋島だったらしく、付け根には、造船所と、向島に渡る渡船場が設けられ、フェリーが往来している。
突き当りの道端に車を置き、右手にある幅2メートル位の道を登ってみた。
わずか30メートルほどで城跡に到着した。
そこは南北50メートル、幅20メートル前後の広い平坦地で、周囲が崖となっていて、確かに城塞として使われたことが想像できた。
海面から20メートルほどの高さで、南に一段、北に一段の曲輪らしい平坦地がある。
北側に海岸に降りる道があり、降りてみると、西側は砂浜、東側は岩礁となっていた。
砂浜は最近まで海水浴場として利用されていたらしく、壊れた便所が立っていた。
船隠に使われた海食洞

東側の岩礁地帯には、「舟隠し」に利用された海食洞が並び、ここが海賊城として利用されていた面影を見ることができた。
城主は、『西備名区』によると、下見氏の居城であったようだ。
尾道市山波町の嶽ケ端城のところで紹介したように、下見氏は、この城と北に向かい合う山波の嶽ケ端城に拠って、尾道水道の東の出口を監視していた。