新見備中守父子が外護した小国の潮音寺

新見能登守元致
『毛利家文書』二二五号、「毛利元就他十六名連署起請文」に署判した備後国人衆の一人。
『備後古城記』によれば、甲奴郡小堀村の古城主は新見能登守であったと言う。
元致のことであろう。
新見氏は備中北部の新見庄を本拠とした国人であるが、その一族がどの時代に備後に移住したかは不明である。
早く、宝徳元年(1449)新見備中守父子が世羅町小国の潮音寺に小国郷内の土地を寄進している(潮音寺文書)ことから、それ以前であろう。
その後、明応年間(1492〜1500)、新見氏は山名俊豊方として見える。
戦国期の活躍の様子は余り知られていないが、『水野記』によると、新免元高と言う人物が甲奴郡小堀、福田村の寺社へ土地を寄進している。
新免氏については他に所見がなく、新見氏の書き誤りであろう。
また、元高は東城町帝釈の永明寺「帝釈殿修造奉加帳」に見える新見少輔六郎元高と同一人物と考えられ、能登守元致の子か孫に当たる人物であろう。
なお、新見氏は毛利氏の防長移封には従わず、近世初頭には一族離散したようである。