現在、福山は県東部の中核市として、広島市に次いで県内第2位の地位を占めているが、その地位とは裏腹に県政の「西高東低」が指摘されて久しい。

 歴史的に見て、中央政権から遙かに重視されてきた備後地方が、今日のように「西高東低」を甘んずるようになったのは、実に今から450年前の戦国時代にさかのぼる。西隣の安芸の国に毛利元就という英雄が現れて、備後国を征服したことによる。広島県を構成する備後と安芸を総称して「芸備」と呼ぶが、それは元就以後のことで、それまでは「備芸」と称していた。そして元就の孫輝元が広島城を築き毛利120万石の居城としたことから「安芸優位」は固定し、現在に至った。
 水野勝成が備後10万石を拝領して福山城を築いたのは、幕府が瀬戸内海中央のこの地を西国支配の要として重視したからだが、このことが福山人を「中央志向」にさせた。水野氏の後福山城主となった阿部氏は歴代老中を務め、有能な家臣は皆「江戸詰め」であった。藩校誠之館も最初は江戸藩邸に置かれた。人々は江戸に行くのが「立身」と考えた。
 だが、このことが明治以降の「停滞」につながった。福山藩は最後まで幕府を支持し、これがいち早く薩長に味方した広島藩と明暗を分かつことになった。明治の県治変遷で福山が、深津県から小田県、更には岡山県編入という「屈辱」を受けたのは、藩閥政府の福山藩に対する露骨な嫌がらせであった。
明治9年4月、旧福山藩領は広島県編入され、やっと現在の県境が定まったが、元就以来の「西高東低」は続き、明治12年には誠之館の存廃問題から、備後五郡の代表が時の内務卿松方正義に「人民誓詞録」を提出、広島県からの分離独立を要求する事態にまで発展した。
 県政の「西高東低」はまた、県東部の「豊かさ」を意味している。古来より福山地方は気候温暖、作柄も良く、人々は進取の気性に富み、海外にまで雄飛した。はっきりいえば、広島の力など借りる必要がなかったのだ。人々の目は常に「県外」に向いていた。これに福山藩以来の「中央志向」が加わり、現在の福山人の気質が形成された。
結果、周りを見渡すと活躍しているのは「他所の人」という事態となった。良かったのか、悪かったのか…。我々はもう一度生まれ故郷を見つめなおすべきであろう。