丹花城と持倉氏
「富貴の在所」で「民家1千余軒、財宝限りなし」といわれた尾道だけに、支配をめぐって争いは絶えなかった。
鎌倉末期の元応元年(1319)12月、備後守護代円清らは、尾道に「悪党」が居住しているとして、手下を率いて町に乱入して、多くの財宝を奪い取った。
当時の尾道は大田庄の「倉敷地」となり、「守護不入」の在所であったから、これは守護側の明白なルール違反だ。
守護代や守護長井氏が尾道の支配をたくらんで起こした事件に相違ない。


前に述べたように、室町時代に入ると、大田庄は備後守護山名氏の「請地」となり、尾道浦も山名氏の支配下に置かれた。
「請地」とは、山名氏が在地の管理を請け負い、定められた年貢を荘園領主に納めるという取り決めで、応永8年の契約では、守護山名氏は毎年年貢2000石を紀州高野山に送るというものであったが、この取り決めが守られたことは一度も無く、50年後には有名無実となっていた。
高野山から「請地」と言う形で大田庄と尾道を奪った山名氏は、ここを実質的な本拠とした。
「守護所尾道」の誕生だ。

鹿苑院殿厳島詣記」によると、康応元年(1389)3月、室町幕府三代将軍足利義満厳島参詣の帰途尾道に宿泊し、山名一族の歓待を受けた。この時、山名氏の総帥時義は子息の時煕を迎えに行かせ、義満の御座船から宿所とした天寧寺まで「浮橋」をかけて義満をもてなしたと言う。


応仁の乱で山名氏の権勢が衰退すると、周辺の国人土豪尾道の支配を狙って、侵略をくりかえした。
その最大の勢力は杉原氏であった。
杉原氏と尾道の関係は古い。既に南北朝時代、杉原光房・親光兄弟は、尾道浄土寺に対して殺生禁断の禁制を出し、庶家で尾道の後背地木梨庄本郷庄の地頭となった杉原信平・為平兄弟も惣領家の光房にならって浄土寺境内に殺生禁断の制札を下した。


守護山名氏の権勢が衰え始めた戦国時代の初め、尾道には信平の子孫である木梨杉原氏の勢力が山名氏や太田垣氏の力を押しのけて入ってきた。永正初年、木梨氏は当時備後切っての有力者庄原甲山城主の山内直通と激しく対立したが、その焦点は誰が尾道を握るかにあった。
山内方は以前苧原中山城のところで述べたように、木梨鷲尾城を攻略すべく各地に要害を築いたが、結局両者共他を圧倒することが出来ず、毛利興元と小早川扶平の仲介で和睦した(小早川文書)。


木梨氏が尾道支配下に置いた年代ははっきりしないが、大永六年(1526)、木梨陸恒・高恒父子は山内方に味方した高須の杉原元胤に「尾道三原の内お望みの在所を以て申し合わせ候」として3箇所の「屋敷分」を与えた(閥閲録遺漏)。
この頃には木梨氏が守護山名氏や山内氏の勢力を排除して尾道、三原を押さえたと見て間違いなかろう。


木梨氏の尾道最初の拠点が、長江一丁目の「丹花(たんか)城」だ。
丹花城は、千光寺山東方の南に伸びた尾根が尾道水道に達する先端に築かれた山城だ。
尾道古寺めぐりで、千光寺から降りて御袖天満宮の手前で右手に入ると浄土真宗福善寺に至るが、城跡はその背後の丘で全山墓地となり、最高所に城主持倉氏の墓石と伝わる巨大な五輪塔が2基立っている。
城跡に残る持倉父子の墓と伝わる巨大な五輪塔

墓地となりながらも、意外に城跡の残り具合は良い。
寺の背後の道を登ると稜線に出て、空掘を経て2段に築かれた曲輪跡にいたる。
本来はもっと南に伸びていたはずだが、山陽線と国道二号線の建設で破壊されている。


持倉氏は、木梨氏の家臣で、木之庄町にその屋敷跡と伝わる場所が残っている。
木梨氏は先ず代官として持倉氏を尾道に置き、足場を固めた上で本格的な支配に乗り出した。
木梨氏が居城を木梨鷲尾城から尾道の千光寺山に移したのは、戦国時代も終わりに近い天正一二年(1584)のことだ。