備後国衆福田氏の居城「利鎌山城跡」

弘治元年福田氏滅亡説について
福山市芦田町に「利鎌山城」と呼ばれる中世山城跡がある。中世、福田氏が居城し、弘治元年(一五五五)、西隣の有地氏の攻撃を受け落城したという。
昭和五三年三月、初めてこの城の本丸に立った私は、ある種の「違和感」を感じた。今まで郷土史書等に伝えられている当城の伝承と、現在残る城の遺構とに「ずれ」を感じたのだ。
規模は福山市内ではおそらく神辺城に次ぐもので、城主福田氏を攻め滅ぼしたとされる有地氏の城跡(国竹、大谷城、相方城)よりはるかに巨大である。
もちろん、城の規模を以って城主の勢力の大小を計ることは危険だが、確実な文献資料が少ない中世、その目安にはなりうる。
してみると、有地氏が備南の有力国人衆(有力豪族)であるならば、その居城よりも大きな山城の城主であった福田氏も有地氏に匹敵する、或はそれより有力な備南国人衆であったはずだ。
私は利鎌山城跡を訪ねた以後、このような考えに立って福田氏、或は有地氏関係の資料を読むようになった。
そして、『東作誌』に所収された「新瀧寺棟礼」を目にしたのである。
この資料は、ことによると有地氏の福田氏討滅説を否定することになるかも知れないもので、今まで伝承の域を出なかった福田氏を一挙に実証史学のまな板の上に載せうる可能性を秘めたものである。
ところで新資料によって福田氏のなぞに迫る前に現在までの通説を確認しておこう。次に掲げたのは「日本城郭大系」(新人物往来社刊)一三岡山・広島県版に収録された利鎌山城の説明である。
 「(前略)城の由来は、建武年間(一三三四〜三六)の湊川の戦で福田盛次、信次の兄弟は、足利尊氏のもとで武勲与あげたことから、延文元年に備後の福田・永谷・今岡・戸手・有地・柞磨などを与えられ、福田村市原に城を築いて移り住んだのが最初とされている。
以後二代信久・三代代盛雅・四代盛長・五代盛国と続くが、六代久重の時には西隣の有地で毛利氏旗下として勢力を拡大していた有地隆信としばしば争うこととなり、弘治元年には隆信は約三五〇騎で攻撃した。これに対して久重は二〇〇騎で応戦し、久重の妻の奮戦などもあったが、ついに城は落ち、久重も死んで福田氏は滅亡し、城は廃城となった(後略)」
この文章は「西備名区」等江戸時代後期の郷土史書を基にしたもので、文の初めから多くの問題を含んでいるのであるが、ここではその滅亡についてのみを問題にしたい。
 では実際はどうだったのか。まず、『東作誌』に掲載された棟札の全文を掲げてみよう。
   東北条郡北高田庄上横野村
     清居山新瀧寺棟礼
     永禄十二己巳十二月十九日願主権律師重明
奉造立佛壇成就時地頭備後国福田三郎右衛門尉代官寺岡備前守諸檀那繁昌処藤原宗次
    大工宗五郎

この棟札が証明したのは次の一点、「永禄十二年(一五六九)、美作国東北条郡北高田庄上横野村の地頭(領主の意)は備後国の住人福田三郎右南門尉である」ということだ。そこで、もしこの福田三郎右衛門尉がここで問題にしている福田氏であるならばどういうことになるのか、答えは簡単である。
「永禄十二年に至っても利鎌山城主福田氏は健在である」=「弘治元年福田氏滅亡説はあやまり」ということになる。
ところで、この説には一つだけ問題点がある。それは、この「備後国福田三郎右衛門尉」がはたして利鎌山城主の福田氏なのか、否かだ。「備後古城記」によると福田姓の古城主として、沼隈郡西村大町山城の条に福田大和守、同兵庫の名を挙げている、福田三郎右衛門尉は沼隈郡の福田氏かも知れない。
利鎌山城跡の堀切

私はこの資料を見つけて以来、この「備後国福田三郎右衛門尉」と利鎌山城福田氏を結ぶ糸はないものかと頭を悩ませていたのであるが、最近になって、その手がかりになりそうな一つの事実に気づいた。まず、次の二つの資料を見ていただきたい。
 『萩藩閥閲録』遺漏巻四の二
   上紙に有之
 「民部卿まいる尊報
  福田三郎右衛門尉盛雅」(本文略)
 『備後古城記』  
   利鎌山城  福田遠江守藤原盛雅
この二点の資料が示しているのは、福田三郎右衛門尉の実名は「盛雅」であるということと、その同じ「盛雅」という名乗りの人物が官途名が違っているとはいえ利鎌山城主として伝わっているということだ。
このことは何を意味するのであろうか、言うまでもなく、それは先に掲げた「備後国福田三郎右衛門尉」の居城は利鎌山城であり、先述した「弘治元年福田氏滅亡否定説」を裏づけるものである。
 以上、利鎌山城主福田氏に関して、その滅亡伝承のみに的を締って述べてきたが、問題はこのような一片の駄文のみによって明確になるものではない。まだまだ論証を要する点も多い。
たとえば年代論である。福田三郎右衛門尉盛雅は大永〜天正八年頃()十六世紀半ばから後半)の文書(『萩藩閥閲録』巻四五ノ二等)に見えるが、それでは福田遠江守盛雅はいつ頃の人物なのであろうか、はたして三郎右衛門尉盛雅の活躍年代と一致するのであろうか。
これは「備後古城記」の本質にもかかわる問題であるが、この点の論証も必要だ。しかし、焦るのは禁物、本稿では利鎌山城福田氏について今日までの通説とは違った解釈も可能であるという事を指摘するに止め、その解決は将来の課題としたい。