「年度」を考える
 去1月15・16日の両日、寒風の中、全国各地で「大学入試センター」試験が行われ、約60万人が受験した。両日の天候は概ね晴れで、積雪や凍結などの心配をした受験生や親たちはほっとしたことだろう。
 毎年この時期になって思うの、「なぜ、この最悪の時期に大学入試が行われなければならないのか…」という疑問だ。
 なるほど、新学期は4月に始まるから、それに間に合うように試験を実施しなければならない、という理屈は分かる。
 だが、それにしてもこの時期に行わなければならない必然性はないように思う。
 日本は中央も地方も財政は4月に始まり3月に終わる「会計年度」を取っており、「学校年度」もそれに従わなければ不自由だから、という意見もあろう。
 しかし、我々が「当たり前」と思っているこの「会計年度」も歴史をひも解くと、明治維新からしばらくの間は一定でなく、また、これを変えようという動きも度々起っていたことがわかる。すなわち、明治維新当初は「10月―9月」制であり、その後「7月―6月」制となり、今日の「4月―3月」制が最終的に定着したのは明治23年(1890)のことであった。
 また、会計年度は国によっても異なっている。暦年と同じ「1月―12月」制を採用しているのは、お隣の韓国ををはじめ、フランス・ドイツ・オランダ・スイス・ロシア・中国などの主にヨーロッパの大陸諸国。「7月―6月」制はノルウェー・オーストラリアなど、アメリカは「10月―9月」制、日本と同じ「4月―12月」制を採用しているのはイギリス・インド・カナダなどの諸国である。
 こうしてみると、当然と思っている事柄でも、広く世界を見渡してみると当然ではないという、当たり前の事実に直面する。
 会計年度は別にして切実なのは、「学校年度」の改革だ。最初に述べた受験シーズンが「厳冬」期にあたるというのも改革してもらいたい理由の一つだが、それよりも重要なのは日本人の主な留学先(反対もそうだが)のアメリカや中国の学校年度が9月開始となっていることだ。
 グローバル化が叫ばれ、小学校教育にまで「英語教育」を導入しようという日本がこれではいけない。アメリカの学校に入学しようとすると半年のブランクができてしまう。中国人が日本に留学する場合も同じ現象が起こることになる。
 学校年度を変えてもらいたい理由はこれだけではない。日本のようにあまりに画一化した社会、息詰まるような過密スケジュールに少しでも隙間を空けてもらい、「多様性」を許容する社会を作ってもらいたいと考えるからだ。学校年度の改革はその一つの原動力になるのではないだろうか…。(中国ビジネス情報2月10日号田口義之「話題を追う」より)