福山の干拓

matinoneko2009-03-03

「開発」というと、我々は「自然破壊」「環境破壊」などマイナスなイメージを思い浮かべる。ところが、過去にさかのぼると、環境をあまり変えない「開発」の時代もあった。たとえば、福山の『干拓地』だ。今からは想像もつかないことだが、現在の市街地の半分以上は、江戸時代の干拓地である。1619(元和五)年8月、備後一〇万石の大名となった水野勝成が備後鞆の浦に上陸したとき、福山市街地のほとんどは海面下にあった。今の福山城天守閣に登ると、海ははるか南に白く輝いているだけだが、当時は城山の南一キロの、今の野上の交番あたりに海岸線があって、箕島ははるか沖に浮かぶ島であった。東も蔵王・深津・手城も当時は海原が広がり、深津の高地は南に突き出た岬であった。

 これらの市街地が現在の姿になったのは、江戸時代の干拓事業による。「干拓」は海を陸地にする、という意味からは自然破壊に違いないが、その手法は現代の「開発」とは全く違うものだ。現代の「開発」が自然を人工の力で無理に押さえ込むのと異なり、江戸期の干拓は、自然を上手く利用して行われた。まず、それが寒冷な気候を利用して行われたことに注目したい。福山の干拓事業は江戸時代の前期と末期に集中して行われたが、それは平均気温の下降によってみられた「海退」現象を利用して行われた。寒い時代には、極地の氷河が増え、海面が下降する。干拓は潮の干満を利用して行われるから、海面が下がればそれだけ干拓しやすくなるわけだ。干拓事業自体もきわめて環境に優しいものであった。堤防で浅い海を囲み、樋門を設け、大潮の干潮時に樋門を閉じると、自然に陸地となる。多治米・川口・新涯(曙)の干拓はこうして実施された。あとは干潮時に排水するのみで、他所からは一切埋土を持ってきていない。かつての先人は自然の法則を知って、それを上手く利用して環境を整えてきた。それは手間隙のかかることではあったが、現代の我々にとって学ぶべきことも多いようである。