在りし日の福山城天守

 このところ各地で「築城400年」という言葉を良く聞く。ネットで検索してみると、出てくるは出てくるは、「弘前城築城400年祭」、「熊本築城400年祭」、「丹波篠山築城400年」。
 理由は簡単だ。これらの城は、関が原合戦が終わって徳川の天下が確定して築かれた城々である。関が原合戦は1600年、今から410年前に行われた。 石田三成等敗者の所領は勝者に分配され、新たに大名となった者も多い。彼らは分け前をもらうと、早速新たな築城に取り懸かった。
 各地で築城400年が盛大に祝われるのは、これらの城の築城が、街の起源と結びついているためだ。戦国時代の城は戦いのために築かれた。要害の地が選ばれ、直接都市の起源と結びつくことはまれであった。
 関が原以後の城は違っていた。権力の象徴であり、要塞というより政庁としての役割のほうが大きかった。築城術も長足の進歩を遂げ、平野の真ん中でも堅固な城壁を築くことが可能となった。この結果、各大名は政治経済の要所に城を築くことをはじめ、築城と同時に城下町の建設を行った。
 各地の「築城400年」を眺めてみると、実に多彩な催しや事業が行われているのがわかる。
 中でも目を引くのは城の再建事業だ。丹波篠山城や熊本城では、戦火で消失した本丸御殿が本格木造建築で見事に再建された。名古屋城では十年の歳月と150億円をかけて本丸御殿を再建する予定という。
 実は、わが福山城と福山の町も、あと11年で築城と城下町の誕生400年の節目の年を迎える。福山城は、ご承知のように元和5年(1619)8月、備後10万石の大名に封じられた水野勝成が現在の城の建つ常興寺山の地に新たな築城の工を起こし、二年有余の歳月をかけて完成した城である。
 その城は、信長以来の築城術の粋を集めた、最も完成された近世城郭であった。望楼型天守の極致と謳われた五層五階の大天守閣は、千鳥破風、唐破風も美しく、戦災で消失するまでは国宝の指定を受けていた。また、本丸、二の丸には3層の櫓が7基も聳え、多聞櫓も厳重に、まさに「西国の鎮衛」にふさわしい威容を誇っていた。城下町も築城と同時に建設され、勝成によって福山と命名され、これが今日の福山市の起源となった。
 わが福山でも「築城400年」を大いに祝うべきであろう。11年はあっという間に来てしまう。今のうちに何をなすべきかの議論を始めないと手遅れとなる。先ずは天守の再建であろう、それも今までのような鉄筋ではなく、本格建築での「再建」を目指すのだ。幸い福山城天守閣は、古写真そのほか資料も多い。市民挙げての熱意があれば十分可能と信じたい(中国ビジネス情報5月10日号田口義之「話題を追う」より)。