山頂に王子神社が鎮座するためその名が付いた

毛利元就の八男、元康の築城した王子山城跡
 市街地のど真ん中と言う、意外なところにも戦国時代の城塞の跡が残っている。東深津町の王子山城跡だ。
 国道を福山駅前から東に向かうと、洋服の青山辺りで、左手にコンクリートの胸壁で塗り固められた低い丘が見える。これが王子山城跡である。
 少しややこしいが、天満屋前の市道を東に進み「三枚橋」を渡って突き当たりを右折、更に進むと東西の市道にぶつかり、左手に神社の参道が見える。
 参道を登れば「王子神社」で、ここが本丸の跡だ。
 参道の左右、さらに神社から南西に延びる尾根には「曲輪」の跡と思われる平坦地が見られ、ここが確かに城跡であることがわかる。
広い本丸には神社が建ち、南に遥か海が見える

 築城者は容易ならぬ人物だ。
 「備後古城記」をひも解くと、「深津村 王子山 毛利大蔵大輔元康 毛利元就卿之息 七男 慶長三年」とある。
 「毛利元就卿」とは、いうまでもなく、あの有名な戦国大名毛利氏の「もとなり」だ。
 その七男(実際は八男)というから、今まで紹介した山城の城主とは格が違う、しかも、「慶長三年(1598)」と言えば、あの関が原合戦の 直前で、時代はもう近世に入っている。
 元康は、正しくは毛利元就の八男。永禄十(1567)年、元就71歳の時の子という。
はじめ出雲末次城主に任命され「末次」を称したが、天正十三(1585)年、兄の出雲富田月山城主毛利元秋がなくなったため、兄の跡をついで富田城主となった。
 元康が備後に入部したのは天正十九(1591)年、領地替えで備後神辺城主に任命され、備後国安那郡1万88石をはじめ、深津・沼隈郡そのほかで合計2万3828石余を領した。文禄四(1595)年従五位下、任大蔵大輔、堂々たる大名である。
 これほどの人物が、何故、当時福山湾に突き出た深津高地の突端に城を築いたのか、証拠は残っているのか…。
 まず、「備後古城記」などの地誌は別にすると、元康の子孫に伝わった記録がある。
 元康の子孫は長州藩毛利家の「一門」として防州厚狭を領し、「厚狭毛利家」と称された。
 同家の記録を見ると、元康の所に「後在備後神辺城 或深津城とも云う」とある。
 更に系図には、元康の嗣子元宣は「備後深津城で誕生」とある。
 記録の性質から、深津城云々を捏造する必然性はまったくないから、元康が神辺城から深津王子山に居城を移そうとしたことは事実と考えていい。
 神辺から海寄りに城を移そうとした(移した)人物としてまず頭に浮かぶのは水野勝成だ。
 この福山開祖は以前に述べたように、鞆という瀬戸内海航路の要を押さえるために福山城を築いた。
 元康も同じであろう。
 しかも、元康は勝成と違って実際に海を渡って戦った経験を持つ。
 文禄慶長の役で、元康は主君毛利輝元の代理として出陣し、大きな手柄を立てた。
 海上支配の重要性を熟知していたはずだ。
 歴史の「もし」を空想するのは楽しい。
 もし、関が原の合戦がなかったら、福山の歴史はどうなったのか、城は王子山にあり、福山市ではなく「深津市」となっていたかも…。